霊の娘

 


 フローリアはまるで眠るようにして、旅立った。
 彼女を慕う水の精霊たちがすぐ側にいたのに、長い間高熱に冒された身体は乾いていた。それを不思議に思いながら、クルールは短すぎる一生を終えた人間の娘を見つめていた。日に透かすと琥珀色に煌いた栗色の髪はすっかり傷んでしまい、若葉色の目は永遠に閉ざされてしまった。それでもなお、うつくしい人間だと思 う。彼女は最後まで、自分の死を恐れなかった。遺していく夫と子供を案じて、けれど自分は満足だと言って死んでいった。
(わたしは幸せだったわ。……あなたにも、幸福が訪れますように)
 エルフであるクルールの十分の一も生きてはいないのに、フローリアの瞳は何もかも知っているかのように微笑んでいた。
「不思議だな……」
 クルールは呟き、清められた死者の額に敬意をこめて口付けを落とした。
 乾いた感触。その笑い声も歌声も、春の日差しのような微笑みも軽やかに踊る姿も、まだ色鮮やかに思い出せるのに、それらの全ては失われてしまったのだ。静かな悲しみが心を浸していく。その情動に、クルールは逆らわなかった。
 花に包まれて眠る彼女の周りを、精霊たちがふわふわと舞っている。彼女との別れを惜しんでいるのか、それとも生命の新たな世界への旅立ちを寿いでいるのか。
「……ラルム」
 ふと、木陰の合間から覗いた金髪に気づく。遺された幼い娘。クルールが声をかける前に、少女はさっと背を翻した。一瞬だけ合わさった視線は怯えを含んでいた。
「ラルム?」
 どこか、様子がおかしかった。実の母親を亡くしたのだから、当然と言えば当然だったが、何か不吉な予感がした。他の族人たちはアルカンスィエルの側にいるか、フローリアの体を送る準備をしているのだろう。追悼の歌声が聞こえていたが、姿は見当たらなかった。
 梢に見え隠れする姿を追う。ラルムは振り返らなかった。何か恐ろしいものから逃げるように、ただただ森の中を走っていく。道と呼べるような道の無い、森の中だ。やがて、ラルムは下草に隠れた大木の根に足を取られて転んだ。
「だいじょう、ぶ……?」
 ぱっと振り返った少女は、全身でクルールを拒絶していた。瞳が零れ落ちてしまいそうなほどに目を見開き、涙を一杯にためていた。
 精霊たちの緊張が急速に高まり、指先に痺れを感じる。
(ああ、いけない)
 小さな体いっぱいに詰まった悲しみ、不安、恐怖。そういったものが、精霊たちと共鳴しあい、増幅するのがわかった。
 落ち着いて、気を静めて。怖がらなくていい。
 怯える身体を抱きしめようと手を伸ばした途端、少女のあらゆる感情が透明な刃となって弾けるのをクルールは見た。


 ああ。
 大丈夫だよって、言ってあげなければいけないのに。

 

                    



 わけのわからない焦燥感の中、目が覚めた。勢いよく息を吸う。その途端、全身が傷んだ。
「っ……な、に」
「動くんじゃない。ゆっくりと、最初は浅く呼吸なさい」
 すぐ横から聞こえた、よく知った声にほっとして従う。上半身をきつく押えられている感触がした。そろそろと腕を動かして手を沿わせると、包帯を巻かれているのだとわかった。視界に入った自分の手にはべったりと血がつき、乾いている。ごりごりと音がするのは多分、薬草を擂っているのだろう。匂いがしないのは、血臭で鼻が馬鹿になっているのだ。
(汚いな……)
 ぼんやりとしていた意識が段々とはっきりしてくる。
「ラルムは」
 思い出したそのままの勢いで問うと、痛みを堪えるような表情をしたミストラルの顔が横たわるクルールを覗きこんだ。この年上の族人がそんな顔をするのを、クルールは初めて見た。
「見つからない。……最初に誰かがいないことに気がついて、私が探しに出たら、お前が血まみれで倒れていた。精霊が暴走したのだとはすぐに分かったよ。見つけたのが私で良かった。ラルムのことは、今、川の方を探しているけれど……」
 不安を誤魔化すような、早口だった。
 フローリアが体調を崩して以来、ラルムはよく川辺にいたと言う。親子そろって水の精霊と飛びぬけて相性が良かったから、誰もそのことを不審に思ったり危険に思うことはなかった。
 けれど ――― 。
 どうしても悪い方向へ向かってしまう思考を打ち切り、クルールは別のことを聞いた。
「アークは……」
 ただでさえ妻を亡くし傷ついていた異父兄が、ラルムがいなくなったと聞いて受けた衝撃は如何ほどだろうと考えて、胸が重くなる。アルカンスィエルは喪失に慣れていない。否、慣れている者など何処にもいないのだ。クルールたちは永久に近い時を生き、死を悟れば黄昏の地へと旅立つ。生命の精霊が旅立った、空の器を見送ることはほとんど無く、ましてや愛しい人が病に窶れ命が失われる瞬間を目にすることなどない。
「少し取り乱したが、今はラルムを探しに行っているはずさね」
 それでも、ミストラルの声が暗い。呪術師である彼は、未来を視ることがあるのだろうか。
 クルールは黙り、目を閉じた。痛みが熱を生んだのか、身体だけでなく頭が酷く重く、今にも地底へ沈んでいきそうな錯覚を覚えた。
(フローリアは、偉かったな……)
 呟く気力も無く、心の中で思う。
 苦しくないはずは無かったのに、フローリアはさいごに笑った。おかげで、クルールが思い出すのは彼女の笑顔ばかりだ。きっと、アルカンスィエルやラルムだってそうだろう。フローリアは、幸せな記憶を夫と子供たちに残した。
 クルールはこうして生きているのに、幼い姪へ微笑んでやることも出来なかった。なんて情けない話だろう。
(ラルム、ラルム、早く帰っておいで)
 精霊がこの思いを届けてくれれば良いと、繰り返し呼びかける。喪うのは、もう充分だった。

 祈りも空しく、姿を消した少女が見つかることは無かった。

「愛しき同胞よ、先立ったひとよ、黄昏の地が其の魂を柔らかに迎え入れんことを」
 否応無くその深さを増した悲しみの中、フローリアの体は森へと還された。
 

fin.


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 今更〜と思いつつ、ちゃんと書いたことがなかったので、ラルム失踪時の話を。あんまりうまく書けませんでした。他の話の内容も寄せ集めないと、結局何があったのか良くわかんないかも(^q^) とりあえず、負傷してるクルールが書きたかったんです(×)。
 同タイトルでいくつかラルム関連の話を描いていますが、もういくつか小話書きたいです。
2009.02.09 約2300字