Sherany
 

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「ああ、よく似合うわ」
 用意された服を身に着けて出てきたクルールに、ベランジェールは嬉しそうに言った。
 綿織物を丁寧に縫製して作られた服は、普段の彼とは雰囲気の異なる意匠だったが、着心地はとても良い。
「これは、彼の?」
「ええ、そうよ。ジェフリーが残していった服。大きさがあって良かった」
 ジェフリーという男と、クルールは面識は無い。だが、何十年も前に死んだ、彼女の恋人の名だということは、知っていた。
 ベランジェールは、クルールのために淡い色をした果実酒と、瑞々しい果物を食卓の上へ並べた。
 戦乱に土地の痩せ細ったシェラニーでは、果樹園などあろうはずもない。それらは海を渡ってきたものなのだろう。
 当然、安くは無い。
 籠一杯に生の果物を盛ることのできるベランジェールは、それ相応の財力を持っているということだ。
「どうぞ、遠慮なく食べて」
「此処のところ、砂糖漬けが続いていたから嬉しいよ」
 人間にとっては間食や茶菓ということになるであろうそれらは、森の民であるクルールのようなエルフにとっては立派な主食である。
 二人は、会わなかったこの数十年間にあったことや、最近のシェラニーの情勢、旅路で見た花の話や店の軒に巣を作った鳥の話など、他愛も無いことを喋りながら、ゆっくりと食事をした。
 ベランジェールが自ら漬けたのだという果実酒は、ほどよい甘みと仄かな酸味が爽やかで、クルールは偽りない誉め言葉を口にした。
「とても美味しい」
「ありがとう」
 彼女の笑顔が、クルールはとても好きだ。透明感のある、けれど柔らかな ――― そう、木立の合間から差し込む黄緑色の光のような笑顔。
 此処が街中の、花街に程近い路地の部屋であることなど忘れてしまいそうだ。外の喧騒と、この部屋は全くの無縁だった。
「髪、ほつれてるわ」
 白く細い腕が伸ばされて、テーブル越しにクルールの髪に触れる。簡単に括っただけの洗い髪が、紐が緩んで頬にかかっていた。
「だいぶ伸びてる。そろそろ、帰るの?」
 以前、一族の住まいを出るときに髪を切り、もとの長さに戻る頃に帰るのだと、話したことがあった。
「うん、そろそろ」
 黒髪を絡め取った手をそっと外させて、
「だから、その前に君に会いに来た」
 指先に唇を寄せて、ちらりと彼女の顔を見る。
 ベランジェールの藤色をした瞳が、クルールを見ていた。
 二人は視線を交わし、それから笑みを交わし、ほとんど同時に立ち上がる。
 繋いだ手をそのままにどちらからともなく距離を縮めると、穏やかな口付けを交わした。


「あ、お風呂」
 わたしまだだわ、と寝台の前でベランジェールは呟いた。
「入りたい?」
 釦の外された室内着をするりと脱がせて、無防備な首筋に鼻を押し付ける。
「入った方が良い?」
「どちらでも。花のにおいがする」
 深く息を吸い、安らいだ声でクルールは答える。
 肌にかかる息をくすぐったく感じながら、ベランジェールは微笑んだ。抱きしめるように腕を回し、塗れた黒髪を戒めていた紐を引いて完全に解いてしまう。
「窓辺にね、花瓶を置いておくと精霊が時々来てくれるのよ」
「君に花を買ってくれば良かったな」
「ふふ、良いわ。あなたからも花のにおいがする……森のにおいかしら。あなたは、森の民だもの」
 妖精界で生まれ、森林に包まれて育ったクルールとは違い、ベランジェールはこの人の世で生を受けたエルフだった。森よりも、街中で暮らす年数の方が絶対的に多い。
 クルールが幾ら旅を重ねても、それは変わらない。
 けれど、どこで生まれ育ってきたとしても、エルフであるという、ただそれだけで彼らは同士だった。
 ベランジェールの身体を抱き上げるようにして寝台へ導き、クルールは自分の衣服を脱いだ。
「どうしたの、その傷」
 不安そうに揺れた声に、クルールは顔を上げた。
「古傷だよ」
「新しいのもあるわ」
 脇腹と腕の辺りに、薄く血が滲んでいる。
「此処に来る途中、ハーピーに襲われてね。大したことないよ」
「古い方は?」
 クルールは笑みを浮かべて答えなかったが、ベランジェールに誤魔化される気はないようだった。
「随分とたくさん……戦争に行った軍人みたい」
 幾度もそういう男たちを身体を重ねたであろうベランジェールは、目で傷跡をなぞるようにしながら言う。
 エルフらしい、すらりと無駄のない肉体の上に、まるで下手な芸術家が彫刻刀を滑らしたような、無数の痕が散らばっている。
「前にはなかったわ。ここの、傷も」
 ベランジェールは手入れの行き届いた丸い爪で、自分の目元を示した。
 クルールの其処には、針のようにやせ細った月の形をした傷跡が張り付いている。
「なんでもないよ」
「なんでもなくて、傷はつかないわ。クルール」
「僕が至らなかっただけだから」
 最後に左耳のピアスを一つ一つ外し、サイドボードの上へ置いてクルールは寝台に腰掛けた。
 柔らかな上質の布団に手を沈ませながら、ベランジェールの瞳を覗き込む。
「ベランジェールが心配するようなことは何もないよ」
 宥めるようにその秀でた額に、すべらかな丸みを持つ頬に、淡く色づく唇に接吻する。
「僕はいなくならないよ」
 もう来ない誰かを待つのが嫌いなベランジェール。
 エルフの永い人生のうちの、ほんのひとときにすぎない時間に、人間の男を愛し、失った女。
 彼女は、傷を負わぬものなどいないこの軍人ばかりの街で、一夜限りの恋人たち一人ひとりの身を案じ、その命を惜しむ。媚でもなく手管でもなく、労わりを口にする彼女を、だから客の男たちは短い時間に本当の心で愛する。
 クルールとの夜を重ねるのは、彼が他の客とは違い、生粋のエルフだからだ。エルフで、軍人ではないから。
「泣かないで」
 涙を止めるように眦へ唇を押し付け、それから深く、口付ける。
 互いの体温を探りながら、女の手が、クルールの腰まで伸びた髪を、縋るように掴んだ。
 身体を重ねるたび、クルールはこのきれいな女が自分のこどもを孕めばいいと思う。
 そうすれば、二人の身に巣食うこのどうしようもない淋しさに、別れを告げられる。 
「僕のこどもを生んで、ベランジェール」
 耳元へ囁いて、そうして後は、花のにおいに埋もれた。
 

'Sherany' fin.
 

 なんとコメントしていいやら。
 大した描写もないし、前書きもいらないかなと思ったんですが、ぎょっとした方がいらしたらすみません。
 エルフに夢見すぎだという自覚はあります。