Aleksei=Claudel
 

- Veronica -


「アレクにいさん、遅いですよぅ」
 だまされた。
 顔見知りの少女に、アレクセイは心底嫌そうに顔をしかめた。
「おい、モモ……お前、高熱で寝込んでるんじゃなかったのかよ」
 苛立ちを隠しもせずに言ったが、娼館の下働きとして今からしたたかさを蓄えている彼女は堪えた様子もなく、くふふ、と妙な声で笑った。
「だって、そうでも言わないとにいさん来てくれないって、ねえさんが寂しがってるんですよぅ」
「俺は会わないぜ。ほら、注文の品、これな」
 化粧品の入った袋を押しつけて踵を返そうとするが、その前に腕をつかまれる。少女が全身で巻き付くようにしてくるので、容易には振りほどけない。
「離せっつの。お前は蛇か!」
「ねえさんから帰すなって言われてるんですよぅ」
 また変な声をたてて、モモは笑った。

 結局、アレクセイは逃げられなかった。

 毛足の長い絨毯の敷かれた部屋の中央で、赤いビロード張りの椅子に腰掛けた女が艶然と微笑んでいる。
「お久しぶりね、アレク坊や」
 アレクセイは憮然として答えない。
 女の名はヴェロニカといい、青年になりたての頃のアレクセイが彼女と出会ったのはもう十年以上前の事になるが、その美貌は衰えを知らない。
 エルフでもないのにどういうわけだと思いながら、アレクセイは相対した。
「そんな顔しないで。嘘吐いたのを怒ってるの?」
「……別に」
 もともとアレクセイは女に対して強く怒れない質だ。
 ヴェロニカには昔世話になった恩があり、結婚したからとめっきり顔を見せなくなった自分を薄情に思う気持ちもあった。
「会いたかったのよ」
 愛してるのは誓ってオーレリー一人だが、この花街一と名高いとびきりの美人にそういわれるのは、男として悪い気はしない。
 ヴェロニカの言葉を向けられるのは、自分一人でないと知っているとはいえ。
「長いこと会いに来なくて悪かったよ、ねえさん。でも、仕事中なんだ。もう帰って良いだろ」
「つれないわ。お茶のいっぱいも飲んで行きなさいな」
 女はにこりと笑う。断られるなどという可能性を微塵も考えていないと同時に、許す気もない笑みである。
 無邪気で、高慢で、賢察。それがヴェロニカという女だ。
 生半可の男が勝てるような女ではない。
「……負けたよ、ねえさん。一杯だけだからな」
「それで良いわ」
 ちりん、と金色の小さな呼び鈴が鳴らされる。
 少し離れたところから、今お湯が沸きましたよぅというモモの声がした。
「あの子も貴方が来て嬉しいみたい。今度からも、届けて欲しいわ」
「ねえさん、悪いが……俺はもうねえさんに会っちゃ行けない男なんだよ」
 実を言えば、妻子持ちの男が娼館に通うことはそう珍しいことでもない。高級娼婦であるヴェロニカの客には、家族ある資産家も多い。ある程度の階級の人間にとっては、高級娼館に通うことは一種嗜みのようなものだ。
 だがアレクセイは違う。貧しくはないが、豊かでもない。しがない一般庶民だ。
 本当なら、ヴェロニカと話をする事など一生ないような、そういう男だ。
「会って良いかどうかは、わたくしが決める事よ。アレク坊や。それとも、かわいい奥さんをもらって、わたくしが醜い女だとわかった?」
 ヴェロニカは終始やわらかな微笑をたたえている。
 心の離れた男を引き戻そうとする粘着さや、娼婦の身を蔑む卑屈なところは、微塵もない。
「ねえさんはきれいだよ」
 間を開けずにアレクセイは言った。
「まだそう言ってもらえて嬉しいわ。……お茶が入ったみたい。美味しいお菓子もあるわ。それを飲んで食べたらもう困らせないから、くつろいでちょうだい」
 ヴェロニカは一度自分の言ったことは覆さない。
 彼女はその言葉のとおり、モモの運んで来たカップや菓子盆が空になり、アレクセイが店を出るまで、もう引き止めるようなことは言わなかった。

「また来て下さいよぅ。ねえさん、今日喜んでましたでしょぅ」
 店の裏口で、見送りに出てくれたモモに言われて、アレクセイは眉間に皺を寄せた。
「もう来ねぇよ。ヴェロニカだって暇じゃねぇだろ」
「ねえさんはアレクにいさんのことが好きなんですよぅ」
 そんなわけはない、とアレクセイは思った。
 アレクセイは、素行の悪かった頃にこの店に面した薄暗い路地で、下らない理由で喧嘩になった男にしこたま殴られているところを、ヴェロニカに助けられた。
 彼女は窓からただ一言、おやめなさいな、と言った。
 当時、ヴェロニカはすでにその名が知れた高級娼婦だった。
 殴られた痛みと熱、吹き出した鼻血と安酒にまみれたアレクセイは、じめついた路地に倒れ混んだ状態で彼女を頭上に見た。
 顔の造作ははっきりとはわからなかったが、豊かな髪と室内灯に照らされた肌の白さだけで、どれほど美人であるかがわかった。
(女神みてぇ)
 その手の扇が招くように動くのを不思議に思いながら眺めているうち、裏口から出て来た下男たちが、アレクセイの木偶の坊になった体を担ぎ、店に運びいれた。
 それまでなら、いかに自分が不利であっても何故喧嘩の邪魔をしたと食ってかかるところだ。
 だが、ヴェロニカを前にしたアレクセイはすっかり腹を見せる犬さながらに、おとなしくなってしまった。
 ヴェロニカは良い匂いのする、輝くような容貌の女だった。笑みに細まる瞳は見たことのないほど慈悲深い色を浮かべ、大胆な襟の開きから見るからに柔らかそうな胸が覗いていた。
 アレクセイが腑抜けのように見とれている間に、彼女の指示で小間使が恐る恐る傷口を濡れた布で拭い、軟膏らしきものを塗り付けて包帯を巻いた。
 アレクセイ自身、自分の何が気に入られたのか、当時から今に至るまでわからないのだが、以来ヴェロニカはアレクセイを特別な客人として扱い、彼の荒れた心を慰めた。
 ヴェロニカは母親のように寛容で、姉のように親身に接した。
 二人の間に肉体関係はない。
「ねえさんが俺みたいなガキに惚れるわけがないだろ」
「にいさんが鈍ちんなんですぅ」
 鈍感!と口をとがらせるモモに、アレクセイはでこピンをお見舞いする。
「なぁに言ってんだか。モモみてぇなガキにゃ、わかんねぇよ」
「むぅ!さっきアレクにいさんだってガキだって言ったですよぅ」
 モモは両手で額を押さえながら言う。アレクセイは呆れた。
「お前な、俺と幾つ年はなれてると思ってんだよ」
 あの頃のアレクセイにとって―――いや、今でもヴェロニカは女神のような女だった。
 うつくしく、明朗で、決して手の届かない女。
 ヴェロニカがアレクセイを好きなわけはない。
 賢い女は、叶わぬ恋などしないのだ。
「じゃあな、寄り道が過ぎた」
 言ってアレクセイは背を向けた。あまりここにいると、気持ちが昔にかえってしまう気がする。
「また来てくださいよぅ!」
 声を張り上げたモモへ、返事代わりに手を振った。

「オーレリーに会いてぇな……」
 店に戻らずに帰宅してしまおうか、と思う。訝しがられるのがわかっているから、思うだけだ。
 昼間だと言うのに、酒場からはもう賑やかな声が聞こえて来る。
 アレクセイは酔っ払いが好むような底抜に明かるい旋律をでたらめに口ずさみながら、花街をあとにした。

 

fin.
 

 仕事で行った花街で昔なじみの娼婦に絡まれるアレクセイを書いてくれといわれたので……。
2007.10.19

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