※ こちら(秋吉さん作)もあわせてご覧ください。

 

もうひとつの

 

「ちょっと正面を向いておいで」
 しゅる、とメジャーの擦れる音に、ラルムはいつもより寡黙になる。
「うん」
 よし、という風に、背後で男の移動する気配を感じる。
 最初は首回り、次は胸囲、その次は肩。
 小さい頃から慣れ親しんだ行程だ。
 始めは、何をされるのか分からず怖かった。嫌がったラルムに、慌てて謝る声が優しかったのを覚えている。
 共に店を訪れていたアルジャンが、大丈夫だよと声を掛けてくれたためもあったが、一番ラルムの怯えを溶かしたのは、彼の笑顔だった。
 ラルムよりも色の濃い、先の跳ねた短い金髪。瞳は、月の明るい夜天みたいな深い、でも暗さのないきれいな青。
 ロンのにいさま、とラルムはその人を呼ぶ。
 川の流れる森からアルジャンとともに街中へやってきたラルムに、はじめてできた「幼馴染」だった。
「脚ばっかり伸びてるなぁ」
 容器から引き出したメジャーを伸ばす男の手が、僅かにラルムの肩に触れる。
 採寸する間、ロンとラルムが互いの顔を見ることはない。
 けれど、彼の頭の中はこれから作る自分の服のことでいっぱいだろうと、ラルムにはわかっている。
 ラルム自身も、小さな物音に耳をそばだてながら男のことを考えている。
 今どんな表情をしてるだろうとか、次はどんな服を作ってくれるだろうとか、あれこれと思いを巡らすのはとても楽しいことだ。
 普段は色々と話しかけてくれる男も、仕事となると没頭するのか、口数が減る。
 この静かな時間が、ラルムは好きだった。
 森や川の側で精霊たちに囲まれているのとは、また違う平穏がここにある。
「羨ましいというか、何というか……嬉しい気もするなぁ」
 穏やかな声。
 視界の中にはいない人の声を、ラルムはきちんと覚えておこうと思う。きれいな石をハンカチにくるんでポケットにしまうみたいに、そっと大事に。
 叔父であるクルールに出会ってから、ラルムはこの世界から離れることを考えている。
 父と叔父と、ラルムに優しくしてくれるあらゆるひとのいる世界。
 本当に幼い頃に日々を過ごしたアルバータの森よりも、もっと暖かく、棘のない森へ。
 母以外のすべてがそこには揃っている。
 帰ろうと思う。
 もう逃げ続けるだけの子供ではいられない。父と、話がしたい。
 本当は、父がラルムのことを誰よりも愛してくれていることを、知っていた。
 知っていたのに、忘れてしまったのだ。あの瞬間に。
 母がいなくなって、あたたかいもの全てが失われた気がしたのだ。
 あの肩に手を伸ばして、背に腕を回して、暖めあうこともできたのに、ラルムはそうせずに背を向けた。
 優しいひとたちをたくさん傷つけて。
 帰らなければいけない。
 そう思うのだけれど、オーという名前と一緒に与えられた、もうひとつのぬくもりが、その決意を揺らがせる。
 たとえば、アルジャンが微笑んでくれるとき、ペシュが怒りながらお菓子作りを手伝ってくれるとき、
「俺は、」
 ロンの声を聞いているときに。
「昔からお前の服を作るのが楽しみなんだ。知ってたかい?ラルム」
(知ってたわ)
 答える代わりにラルムは笑う。
 悩みごとも考えごとも何もかも一瞬でどこかへいってしまうような、幸福感が胸に満ちる。
「わたしも、ロンのにいさまにお洋服を作ってもらうのが、いつも楽しみなの」
 終わったよ、と言われて、脱いであった服に手を伸ばす。採寸のときは、正しく計れるように薄着になっていた。袖を通す服もまた、ロンの作ってくれたものだ。
「だってロンのにいさまの服はとても素敵だもの」
 ラルムのために作られたそれは、いつでも作り手の心そのままに優しく身を包んでくれる。
「ありがとう、仕立屋冥利に尽きるよ」
「みよ、…みょうり……?」
「ええと……」
 聞き慣れぬ音に首を傾げれば、わかりやすい説明の言葉を探して、メジャーを巻き取る手が止まる。
 いつもだったら、ちゃんと彼の言葉を待っていられるのに、何故かラルムは口を開いた。
「わたし、ロンのにいさまが好き」
 帰りたくない、と思う。
 ロンは、その眼鏡の奥の目尻が垂れた双眸を少し驚かせて、それから柔らかく微笑んだ。
「俺もラルムのことが好きだよ。……疲れただろう、お茶にしようか」
「うん。にいさまのケーキはとても美味しいわ」
 今、このときに足りないものなど、何もなかった。

fin.

恥ずかしいので、ノーコメント。
ロン氏(NPC)@秋吉さんお借りしています。ロン氏の台詞は、ほぼ秋吉さんの漫画より。
2007.09