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 今日も天気が良い。白い雲が晴天を風に押されて滑って行く。
 此所しばらく雨はなく、ペシュは洗濯物が干せて助かると言っていたが、ラルムにはあの大気中に濃く満ちる水の匂いが少し恋しい。
 精霊たちが気持ち良さそうに飛び、魚が陸でも泳げそうな気のするほど水の気配でいっぱいになる雨の日は、なにか暖かいものに包まれでもしているような安心感を覚える。
「……」
 ふと、ラルムは歩みを止めた。ペシュを追っていたはずなのに、全く違う方向へ来ていることに気がついたからだ。
 見覚えのない町並み。つい先ほどまで晴天の陽のもとを歩いていたと思ったのに、どこか薄暗い。
(ここはどこかしら)
 見知らぬ場所にいる不安というのはないが、どこへ行ったら良いのだろうと惑う。
 気遣うように精霊が頬に触れて来るのに、そっと微笑んだ。
「……ぁんだ、よ」
「きゃ……」
 通りに立ち止まっていたのが悪かったのか、不意に肩口を押され、ラルムはほとんど突き飛ばされるように建物の壁に手を突いた。
「ご、ごめんなさい……っ」
 言いながら顔を上げると、濁った目と視線があった。その異様な目付きに体が強張る。
 背の低い男だった。縮れた黒髪をむさ苦しく伸びるがままにし、同じように手入れのされていない髭に埋もれた口からは、昼間だと言うのに強い酒精の匂いが漂って来た。その手にもラベルの剥れた酒瓶のようなものを持っている。
 男はラルムを見、粗暴な口調で何か言ったが、その汚い言葉の意味はラルムにはわからなかった。
 困惑したまなざしが気に触ったのか、男は一方的に捲し立てる。
 気付いていないわけはないのに、他の通行人は気に止めた様子もなく歩いている。面倒ごとに関わりたくないのだ。或いは、立ち止まり、酒瓶を呷りながらにやけた顔で様子を見物するものまであった。そういう街区なのである。
「っ……」
 男の手が唐突にラルムの手首を掴んだ。反射的に腕を引こうとするも、男の力に敵うわけもない。
「離し、て……」
 男が何を考えているのか、ラルムには少しも分からない。無造作に掴まれた手首が痛い。
 この不作法な人間に、精霊がぴりぴりしているのがわかる。嫌な予感がする。ずきりと頭が痛み、ラルムは顔を歪めた。
「怯えるこたねぇょ」
 表情の変化を勘違いした男が、酒瓶を放り捨てたもう片方の手を伸ばして来る。
「やめて」
 緊張した制止の言葉をむしろ合図にしたかのように、上衣の釦を引き千切られ、ラルムは目を瞠った。
 生理的な嫌悪感、恐怖に総毛立つ。
 わぁんと頭に響く声は精霊の声、血の沸くような感覚。
 己のどこに隠れていたのかと言うような、怒り。
「やめてっ………!!」
 目の前が赤くなった。
 姿からして豹変した精霊たちの放つ水の刃が、男を吹き飛ばす。
「っがは……ぁ」
 自身の血に染まる石畳に伏せ、切り裂かれた男が呻く。
 足が震え、体を支え切れずに座り込んだ。逃げてしまいたいのに、体が言うことを聞かない。うまく空気が吸えず、喘ぐように息をした。
(ああ、……いや)
 粘ついた、嫌な匂い。
 ぐるぐると身の内に巡る激情は、精霊のものなのか自分のものだか、もうわからない。
 いつもは穏やかな精霊が、痛いほど鋭い気配を放っている。
「ぐ……」
 男の恨みの籠った目が睨み付けて来る。
「この……ッ」
「……ご、めんなさい……ごめんなさい……」
 異変に騒ぐ周りも、倒れる男も、だんだんとラルムの意識に入らなくなる。ひどく苦しくて、自分がどこか暗いところに閉じ込められている心地がした。
「あ、ぁ……」
 こんなことが、前にもあった。
 肩に触れた男の手、たがの弾けた感情、放たれた刃。
――― そんなつもりじゃなかった。
「許して、…クルールおじさま……!」
 そっと優しく、闇が目を閉ざした。
「ラルム」
 忘れるはずもない、柔らかな声に、熱いものがまなじりから零れ落ちる。
 信じられない。
「大丈夫」
 幻聴ではないのだと、確かめさせるように、声は続ける。
「ラルムは何も悪くない」
「おじ、さま……」
 うん、と穏やかな肯定が返って来る。溢れ出した涙が、緩く、けれどしっかりと目を覆う男の手を濡らした。
「深く息を吸って」
「…………」
 あの嫌な匂いがするのではないかと思うとためらわれたが、ぎこちなく深呼吸をすれば、清涼な花の匂いがした。懐かしい、かつてほんの小さなこどもだったラルムを包んでいた香気だ。
 ゆるゆると、気が静まって行く。尖った気配がほどけ、柔らかくなる。
 あっという間だった。
「落ち着いた…?」
 覆いが外され、差し込んだ光に瞬く。
 濡れた世界、不思議な青色の瞳がラルムを見ていた。
 

*  *  *


 クルールはラルムに手を貸して立たせると、自分の外衣を脱いで羽織らせた。
 さっと視線を巡らせて、半ば置いてくるようにしてきた連れが追いついて来たのを認める。
「メグ!」
 野次馬を掻き分け、姿を見せたのは中年の男、その背後に、幼い少女を連れた小柄な女が一人従っていた。
「まぁまぁ、大丈夫?」
 温かみのある麦色の髪を飾り気なくまとめたメグは、クルールに支えられたラルムと血に塗れた男とを見比べて目を見張ったが、物怖じする様子はなく、言った。長命のドワーフである彼女は、外見ではわからないが、この程度の騒ぎでは動揺しないだけの人生経験を積んでいる。
「この子を連れて…そうだな、さっき見かけた喫茶店にでも入っていてくれる?」
「ええ。……じゃあ、行きましょうか。歩ける?ゆっくりね」
 ラルムは見知らぬ相手に僅かばかり不安げな顔を見せたが、おっとりとしたメグに話しかけられて、頷いた。
「クルール」
「クラリスも一緒に行って。ハルをちょっと借りるけど、後からすぐに行くよ」
 メグの後ろから手を伸ばして自分の服の裾を摘んだ少女に笑いかける。なによりも、今は早くラルムをここから離してあげたかった。
 負傷した男は死にはしないだろうが、逆恨みされても面倒だ。すでに、野次馬たちの中には殺気立つものもいた。ただ、精霊の力に気圧されて手を出してこないだけだ。
 シャーマンとしての能力を磨いたことはないクルールだが、意思疎通が図れる程度には相性は悪くない。ラルムに付き従っていた精霊の一部を、威嚇用に残しておいてある。
 女子供たちが野次馬の輪を抜けるのを見送り、倒れた男の方へ近づく。すでに、その傍には連れの最後の一人である男がしゃがみこんでいる。
「どう?」
「完全に塞ぐにゃ時間がかかる。応急処置でいいな」
「充分」
 クレリックの行使する光が、裂けた皮膚を繋いでいく。
 治療されながらも、男の目は恨めしくクルールを睨めつける。
「……あの女ぁ、化け物か…っ」
 男の濁った目は、清らかな存在である精霊を映さないのだろう。突然、なんの詠唱もなく出現した水の刃を脅威に思うのは当然だ。
 しかし、クルールには男を弁護する気などさらさらない。 
「黙れ、下衆が」
 薄い唇に冷えた笑みが浮かぶ。
「二度と女を抱けない体にしてやろうか?手始めに、あの子に触れたその手を切り落とすよ」
 人間たちに美しいと形容されるエルフの顔が、こういう時どう見えるのか、クルールは良く知っていた。
 

to be continue .... ?
 

 足早にクルール登場。キメキメすぎて恥ずかしい。
 あ、この町がどこだとか店がどこにあるとか、一切考慮せずにフィーリングで書いておりますので、公式設定と何か矛盾するところがあるかもしれません。あしからず! でもどんな街にも悪所ってありますよね……。
2007.06.10