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―――青い。
 今日はとても天気が良かった。登るにつれ木々が減り、陽を遮物のなくなる高山にあっては、日差しが痛いほどだった。
 時折甲高い声を放ちながら頭上を旋回する異形のハルピュイアは、澄んだ一面の青に落とされた恐ろしい濁った滴のように見えた。
 事前に打ち合わせた経路の各所には護衛班の戦士たちがいるとは分かっていても、いつ襲われるとも知れない。
 思ったよりも近くに聞こえたその美しくも凶暴な歌声に、束の間とはいえ気をとられたのが良くなかった。
 体の浮いた瞬間、二つの声がラルムを呼んだ。
 あっという間にラルムを飲み込んだ、青と白とそして森を映し混んだ緑の渦は、その声を散り散りに引き裂いてしまって、とてつもない寂しさに襲われる。
(ああ……わたし、これを知ってる)
 ほろりと零れたかもしれない雫は、けれど奔流に飲み込まれてすぐにわからなくなった。
 しばらくの間、空を仰いだまま呆けていたらしい。気がつくと、水の精霊たちが飛び交いながらこちらを見ていた。
 晴天を見上げながら、うねる水にすっかり洗い流されてしまった現状と言うものを、少しずつ取り戻す。
 そうだ、薬草を運ぶのに先を急ぐからと、彼女たちに――精霊に性があるのかと言えばそれは否だろうが、ラルムにとっては常にそれらは女友達であり姉であり母だった――川の水面上を運んでもらっていたのだ。
 そうして。
「大丈夫、あなたたちのせいじゃないわ。ありがとう」
 精霊たちは、人ではないがゆえに時に重大なことを失念してしまう。人にとっての危険が、判らないこともある。それは実体を持たない彼女たちにとっては仕方のないことで、ラルムは微塵も気にしてなどいなかった。
 もう少し助けて貰うことにして、体を起こす。流れのある水の上でそうすることも、精霊たちの力が少しそえられるだけで、陸でするのと同じくらい簡単なことだ。
 むしろ、一時期ラルムには水から離れた陸上の生活の方が大変なくらいだった。森にいた自分を引き取ってくれた男や近所の婦人たちが、どうしてああも陸地で自由に動き回れるのか不思議に思うことさえあった。
「ラルム!」
 ざざ、と葉ずれの音がして、黒っぽい影が岸辺に下り立った。とても身軽なその様を、まるで燕のようだと思う。言葉のうまくないラルムが、それをちゃんと相手に伝えられたことはないのだが。
「コライユちゃん」
「大丈夫?君、滝から落ちたのにも驚いたけど、それで無傷って言うのも驚きだねー」
「そうかしら」
「……そうだよ」
 呆れたような溜息を吐かれて、そうかと思い直す。
 一度目は、怪我をした。小さくはない、怪我を。
 今度は上手に守ってくれたらしかった。あるいは運が良かっただけだろうか。水から上がるとすぐに精霊たちが働いてくれたから、風邪をひくようなこともないだろう。
「便利だねぇ、それ」
「……コライユっ、無事か!?」
 どう迂回して来たものか、思ったよりも早く追いついて来た男の声に、コライユは顔をしかめる。いや、笑顔を作った。
「お前こそ頭でも打ったの?落ちたの僕じゃないんだけど」
「こいつは落ちたところで死にゃしねぇだろ。実際生きてるしな」
 険しい道なき道を無理やりに下って来たらしいアルーガルドは、高いとは言わないが低くもない滝から落下したラルムよりも数多くの擦過傷を負っている。
 案外、彼の言うことは正しいのかもしれない。
「アルーさん、頭に葉っぱついてますよ?」
 なにせ、落ちた当人はこの調子である。心配する気も失せるというものだ。
 アルーガルドは荒っぽく自身の頭を手で払う。
「ラルム、髪、どうにかした方が良いんじゃない。引っ掛けるよ」
「あ……」
 コライユに示されて、ラルムは自分の髪に触れた。鋏の鋭さが恐ろしくて長く伸ばしたままの髪が、留めるものもなく垂らされている。
 前髪に結ばれた花飾りの紐は視界の端に見える。無いのは、花模様の彫物がされた簪。
 思わず振り返るが、当然、流れの中にそれを見出だすことはできなかった。
「しゃーねぇな。おら、それ貸せ」
 それ、というのが何であるか理解するより先に、男の指が飾り紐を解く。
 アルーガルドはラルムよりもよほど器用だ。
 長い金髪が手際良く一つに結い纏められるのに、大した時間は掛からなかった。
「この先何にもなければ、間に合いそうだね。さっきの奴もどっか行ったし」
 太陽の位置を見上げたコライユが言う。普段は漆黒に見える髪が陽に透けて、その瞳と同じ紫色が滲む。
 無理に滝上へ戻るよりも、先へ進んで途中で本来の経路に戻る方が早いだろうと結論を出して、三人は再び歩き出した。

 

*  *  *



「オーってば、どうしちゃったの?」
 納品用の箱に父親が作った組み紐を丁寧に納めながら、ペシュは言った。昨日のからずっと溜めていた疑問だけに、その声は心配の色が濃く、僅かな苛立ちも混じった。
「うん…」
 アルジャンは作業台の上を片付け、幾種類もの糸を整理しながら、娘に頷いて見せる。
「ギルドの仕事で疲れているんだろうね」
「それだけじゃないって、父さんだって気がついてるでしょ」
 血こそ繋がっていないものの、間違いなく家族の一員である娘が、ギルドの仕事から帰えって来たのは昨日のことだ。
 子供たちと遊んで来たという前回とは違い、危険が伴う仕事内容を事前に聞いていたから、ペシュはラルムがいない間、ずっと落ち着かない気分だった。対してアルジャンは、ラルムが人の思うほどか弱くはない――身も蓋もないことを言えば、驚くほどの強運の持ち主であることと、その身を守ろうとする精霊たちの守護の厚さを知っていたから、それほど不安はなかった。
 実際、帰ってきたラルムは案外元気そうに見え、土産だといってアルジャンにハルピュイアの羽をくれたりもした。
 それを手に入れるために危険な目にあっていなければいいと願いながら、昨日の内にアルジャンはとても怪鳥の物とは思えぬその純白の羽を、大きさのあった額にいれて作業部屋の壁に掛けた。
 壁には他にも同じように色とりどりの羽が飾られている。
 羽の収集は、アルジャンの唯一の趣味と言って良いものだ。その自然の色彩や模様は、綾紐を組む際の発想を助ける。
 ラルムを見つけたのも、鳥の羽が抜け落ちてはいないかと森に踏み入ったのがきっかけだった。
 それから、もう決して短くは無い年月が経っている。幼い少女だったラルムは立派な娘へ、小さなこどもだったペシュは、父親よりもしっかりとした少女へと成長している。
「……あたし、オーにギルドなんか勧めるんじゃなかった」
「ペシュ?」
 珍しく気落ちした声に、アルジャンは顔を上げた。ペシュは蓋を閉めた箱に手を置いたまま、軽く俯いている。
「あたし、ギルドに入ったら危ないこともあるって分かってたのに、オーに勧めて、オーは自分で危ないとかそんなの、わからないで入ったんだもの……あたしがすすめたから」
「ペシュ」
「ギルドに入れば、オーはあたしの分かるところにいてくれると思ったの」
 ラルムは、アルジャンともペシュとも違う。人間にとっては神秘の存在とも言えるエルフの血を引いている。それが関係しているのかいないのか、水の精霊の恩寵をごく自然に受けるラルムに、なにがしかの距離を感じないと言えば嘘だった。
「ときどき、オーは今みたいにどこだかわかんないところ見て、ぼんやりしてるでしょ?それで、決まっていなくなるのよ」
 何も告げず、何も持たずに、ラルムはふらりと何処かへ行ってしまう。不意に、此所は自分の居場所では無いと気がついたように。
 本人にその意識は無いのかもしれない。
 いつだって、何ごとも無かったように帰って来て、心配したよ、というアルジャンと、どこに行ってたのと叱るペシュに困ったように謝る。
「またどっか行っちゃったら、どうしよう」
 泣き出しそうな娘に、アルジャンは椅子から立ち上がってその心細げな体を軽く抱き締めた。安心させるように、背中をそっと叩いてやる。
「……どこへ行っても、帰ってくるよ。オーはうちの子なんだから。それに、確かにギルドをすすめたのはペシュだけど、入ることを決めたのはオー自身で、それを許したのは家長の私だ」
 ラルムがギルドに入ったことが間違いだとは思っていない。
 不思議と精霊ばかりでなく人に助けられ、生きて行ける娘だけれど、自分自身の労働によって対価を得ると言う基本的なことは、やはり経験的に知っておかなければならないだろう。友人も増え、見聞も広まったはずだ。
「さ、大変だろうけど、ロン君のところに納品頼むよ」
「……うん。行って来る」
 自身の不安を父親に受け止めてもらい、ペシュはほっとした笑みを覗かせた。
 娘を見送り、アルジャンは作業部屋から出た。
 普段食事を摂る部屋には、この家で一番大きな窓がある。外へ張り出した出窓の、窓台へラルムは腰掛け、外を眺めていた。
 いつもは不器用にまとめられている――アルジャン自身、組紐以外ではラルムのことを言えないくらい不器用なのだが――金髪が、今は下ろされたままになっている。ギルドに入る前の彼女を見ているようだった。ギルドに入った記念に作ってやった青い服を着ていないせいもあるだろう。
「オー」
「……アルのにいさま」
 屈託のない微笑みがないだけで、まるで別人のように硬質な顔に見える。
 澄み切った淡い青色をしながら、焦点の曖昧な瞳が、ペシュやアルジャンを不安にさせるのだ。こちらを見ているはずなのに、視線が素通りしているのではないかという気になって来る。
「疲れがとれないのかい」
 問えば、ふるふると頭を横にふって答える。長い髪が頬にかかったが、ラルムは気にならないらしい。
「簪のことなら、気にしなくて良いんだよ」
 服と共にもらった簪を無くしてしまったのだと、昨日も悲しそうな顔を見せていた。
「うん……」
 頷きながらも、ラルムは心ここにあらずといった様子で、何か他のことがその胸中を占めているらしい。
 隠し事でもあるのだろうか。アルジャンやペシュに言うことのできないような――?
 一体どんなことをラルムが隠していると言うのか。
 第一、ラルムが隠し事をすると言うこと自体が、想像出来なかった。
「……ごめんなさい、にいさま」
「謝る必要はないよ。具合が悪いわけではないんだね」
「ええ」
 無理をしているようではなかったから、アルジャンはひとまず安心する。
「……ペシュは?」
「あぁ、納品に行ってもらってるよ。ロン君の店に」
 ラルムはまた窓の外へ視線をやった。
「ロンのにいさまの……」
 かの仕立屋とはつきあいが長く、現店主の両親の頃から知っている。
 まだ娘たちが幼い頃は、彼女たちをつれて店を訪ねたりしていたから、ラルムも親しみがある。まだロンが若く今ほどの技術を身に着けていない頃、何度か練習にといってラルムの衣服を仕立ててくれたこともあった。
「オーも一緒に行くかい?今ならすぐ追いつくと思うよ。他にも少し用事を頼んだから」
 最近知ったことだが、ラルムがギルドで知り合ったアルーガルドという青年も、その店に住んでいるらしい。多少問題がないでもないが、それなりによくしてもらっているようだ。今回の仕事でも一緒だったのだと聞いた。
 彼らに会えば気も晴れるだろうと勧めると、ラルムは素直に頷いた。

 

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 3-2課題〜クルールと再会までの話です。 当然のようにコライユ@東間さんとアルーガルド@秋吉さんにご出演頂いてます…。お二方とも許可感謝です!に、にせもの!
 字面が好きなので、ここではハーピーをハルピュイアとしています。