(ああ、もうそんな時期か)
 市場に並んだその果物を見て、クルールは思った。
 暦が火精季に入って、もう半ば近い。
 空は雲ひとつなく、強い日差しが乾いた地面に街路樹の陰をくっきりと落としている。しばらく雨がないせいで空気も土も乾き、雑踏にあっては舞い上がる砂埃で視界に靄がかかったようだ。
 行きかう人々は、みな砂除けと日除けを兼ねた薄布を、頭や口元に巻きつけていた。
 クルールは、立ち並ぶ露店の前で立ち止まり、店の主人が暑さに負けぬ威勢のよい声をかけてくるのに、口元の印花布を指で引き下げた。
「これを二つ」
「はいよ」
 指し示した先の桶には水が張られ、その中へぷかぷかと淡紅色のまるいものが浮いている。水蜜桃だ。
 支払いを済ませて物を受け取ると、クルールは砂埃が果実につかぬようにそれを薄布で包み隠すようにしながら、もと来た道を戻り始めた。
 その先に、この旅の連れがいる。

 街の中心にある神殿前の広場では、ほとんどの街路樹の木陰に人影がある。
 みな、暑いのだ。
 ほとんどは旅人や行商人のようだったが、中にはこの街の住人らしいいでたちの者もあり、何人かで世間話でもしているようだ。
 中央には、水を湛えた大きな水盤がある。水面に反射される日光が、眩しいほどだ。底から水が湧き出だすようになっているらしく、絶え間なく溢れて、地面に作られた隙間へ流れ込んでいく。循環させる仕掛けでもあるのだろうか。
 こどもたちがその水を跳ね上げては、はしゃいだ声を上げている。
 そんな様子を目に入れながら、クルールは連れのもとへ向かった。
 待つように言っておいた神殿の軒下にいないのに一瞬戸惑うも、一本の街路樹の陰へ姿を見つけて、そちらへ歩みを変える。
「トリシャ」
 呼びかけると、いつもよりも鈍い動作で顔があがった。
 暑気にやられて、その顔色は日陰にいるということを差し引いても、優れない。汗ばんだ頬に、金色の髪が張り付いている。
 クルールは屈むようにして、しゃがみこんでいる相手に目線を合わせた。
「大丈夫?」
「ちょっと、ましになったかも。……ごめん」
「謝ることはないよ。この陽気だからね、仕方ないでしょう」
 あたしは寒いところで生まれたの、と以前言っていた彼女は、水精季の凍えるような寒さにはけろりとしていたのに、火精季になった途端、体調を崩しがちになった。
 大きな気候の変動がない妖精界で生まれ育ったクルールは、旅の初めこそ季節の変化に戸惑ったものの、今ではすっかり慣れてしまった。
「手を出して」
「……?」
 訝しがりながらも言うとおりにした相手の掌へ、買ってきた果実を渡す。
 水滴を弾くそれに、トリシャはぱちんと瞬いた。
「食べたら少しは楽になるかと思って。宿も見つけたから、食べたら行こう」
「ありがと……桃なんて久しぶり。高くなかった?」
「トリシャは色々と気にしすぎる。良いから食べなよ。今のトリシャには必要なものだよ」
 まぁ僕の分も買ったけど、と嘯いて、手元に残った果実に爪を立てる。
 ぷくり、と果汁が丸く染み出てくる。ささくれだたせた部分をつまんで引けば、薄く柔らかな皮は、するするとはがれた。
「むいてあげようか」
「良い」
 クルールが同行を申し出る以前、ずっと一人で旅をしてきたトリシャは、世話を焼かれたり甘やかされることに慣れていない。
 口早に言って自分の桃を剥き始めたのは、きっと照れ隠しだろう。
「……おいしい」
 やがて、先だっての無愛想を詫びるような声音で、トリシャは呟いた。
 少し前まで水に浮かべられていた果実は、熱を溜め込んだ身体を心地よく冷やす。自生種とは違い、果樹農家によって品種改良された水蜜桃はうっとりするほど瑞々しく、齧ると甘い果汁が口中に広がり、咽喉を潤した。
 食べ終わる頃には、トリシャの顔色も随分よくなっていた。
「ごちそうさま」
「やっぱり生の果物が一番だな」
 生粋のエルフである二人の主食は、主に果実である。生食が基本だが、旅をしている以上、保存性を求めざるを得ない。乾燥させたものや、水気のない木の実が中心になりがちだった。
「そうね」
 残った皮と種を、捨てる。舗装されていない地面には、よくよく見ると他にも誰かが食べたらしい果物の種や皮が捨ててあった。放っておいてもそのうち土にかえるであろうし、そうでなくともすぐ傍に立つ神殿の関係者がある程度清掃してくれる。
 果汁に濡れた手だけが残った。
 水分の蒸発が早いせいで、もうべたついている。
 水盤で洗ってしまおうとクルールが思う横で、トリシャもそのことに思い当たったらしい。
「手がべたべた」
 ひとりごとのように言い、濡れた指を何気なく舐めた。
 少し荒れた唇の合間から、あかい舌がちろりと覗く。
「……なあに?」
 クルールの視線に気がついて、トリシャは小首を傾げた。
「うん……いや、なんでもない」
 一瞬、自分が何を考えたのか分からなくなって、クルールは曖昧に誤魔化した。
 思考を切り替えるように、立ち上がる。
「あそこで手を洗おう。立てる?」
「大丈夫」
 無意識に握りこんだ掌は、やはり桃の汁にべたついていた。
 

fin.
 

 まだ青臭いクルール。今よりやや口調が幼い。成長期は過ぎたけど、二桁。エルフに発情期があるとしたら、それくらいの時期(…)。
トリシャは、うんと年上です。バツイチ。
2007.09.30
 ↑日付にびっくりした!どういうわけだかSFFSの方で先に存在が表に出たトリシャの話。2008.05.08掲載