マトトマ



「アルのにいさま、わたし、市場に行ってくるわ」
 全く自分でも情けないことだが、私はそのこどもを諫めるだけの力を持たなかった。
 実子である少女は、隣家の畑を手伝うのだと言って朝から家を開けており、縁あって家族となった娘が、目の前で屈託のないきらきらとした笑顔を見せている。
 その顔立ちは人ならぬ血を引く証に、とても整ったものなのだが、私が二十も年の離れた彼女に叶わないのはその造作のせいではなく、清らかな湧き水に映した空のごとき色の瞳が、期待と好奇心の輝きを湛えて貴石のように輝いているからだった。
「オー…市場に行くのが悪いとは言わないけど…」
 オーが一人で出かけて行くのはよくあることだ。時には朝から晩まで、ひどい時には――最近ではなくなったが――数日間帰ってこないことまである。それも、どこへ行くともいつ帰って来るとも告げずにだ。
 最初のうちは何かあったのではないかと心配しもし、もう帰って来ないのではないかと不安になりもしたが、最近では精霊もいることだし、毎度本人は何事もなかったような様子で帰ってくるので、大して気にしないようになっている。
 それが、今朝に限ってわざわざ市場に行ってくるとオーが前置きしたのは、先月、私が……いや、ペシュが厳命したからである。
『あの男と出かける時は事前報告なさいっ!』
 近頃知り合った男に連れられてカジノや娼館に行ったと知った、あの時のペシュの剣幕はすごかった。思わず家長である私が、ラルムのことを叱り損ねるほどだった。
 全く自分でも情けないことだが、私は頼りない家長なのだ。
「アルーガルド君と行くんだね……?」
「うん!この間、約束したの」
 満面の笑顔が、少し幼さの残る口調と相俟って逆らいがたい輝きを増す。
「………気をつけてね」
「はぁい」
 私は止める言葉をもたなかった。
 後で、どうして簡単に行かせてしまったのかと、ペシュに怒られそうだ。
「……」
 家を出る時、いつだってオーは勢い良く、出て行ってしまう。戸口で見送っていても、振り返りもしない。もう、先のことに気を取られてるんだろう。何かに夢中になるのは良いけれど、育て親としては少し寂しい。
 遠ざかるオーの後ろ姿を見ながら、溜め息が一つ零れた。
 

*  *  *
 

 赤、赤、赤。
 真っ赤に熟した丸みが、テーブルをいっぱいに埋めている。
 その深い茶色をした厚みのあるテーブルは、17年前に私がオーレリー ―― ペシュの母親である女性と結婚した際に、祝儀として義父母から貰ったものだ。私とペシュとオー、三人分の食事を並べてもまだたっぷり余裕のある、大きなものである。
 そのテーブルが、今、よく熟れたトマトに一面埋め尽くされていた。
「………参ったわね」
「そうだね…」
「?」
 半分はペシュが隣人に畑仕事を手伝った礼として貰って来たもので、残り半分はオーが市場で買って来たものである。
 紙袋いっぱいのトマトを抱えてオーが帰って来たのにも驚いたが、まさかその数分後に、ペシュが籠いっぱいのトマトを抱えて帰ってくるとは思わなかった。
「いくらなんでも、うちじゃ食べ切んないわ。保存もきかないし……」
 腰に手を当てて、ペシュは大量のトマトを見下ろす。
 私は基本的に紐を編んだり結んだりする以外は不器用なので、家事、特に料理は彼女の役割なのだ。遊びたい盛りだろうにすまないとは思うが、本人に少しも家事を厭うところがないのが救いだった。
「それにしても、随分たくさん……」
 言いさし、ペシュは何かに気がついたかのように言葉を途切れさせ、オーを見た。
 オーはいつものように平和な笑顔を振りまいている。
「オー……これ、誰のお金で買ったの」
 ペシュの一段低い声に、私にも彼女が何を考えているか分かった。そして、その推測が恐らく正しいだろうことも。
 オーはちょっと不思議そうに小首を傾げ、
「わたしの、よ」
「オー、いくら持ってたの」
 それからペシュは矢継ぎ早に幾つかの質問をし、オーはその全てに素直な答えを返した。
「…………」
 そうしてオーが実際にはこれだけのトマトを買うだけのお金を持っていなかったこと、連れの男が一銭も出さなかったことなどが明らかになり、必然的に私とペシュの推測は確信を得た。
 よくあることといえば、よくあることだ。オーに限って言えば。
 ねだり上手と言うべきか、オーは小さい頃から人によく物を貰う子供だった。
「あの男……っ」
「ペシュ、落ち着いて……なにも、アルーガルド君が悪いとも……」
 すべての元凶はその男だと決めたらしいペシュを宥めるも、きっと睨まれてしまう。
「何言ってるの、父さん。オーと一緒に出かけるって言うなら、そこまで面倒見て貰わなきゃ、困るでしょ!せっかくの躾が台無しじゃないっ」
 いや、躾って……。
「考えても見てよ、この人畜無害そうな顔したオーが買えないトマト欲しがってて、そのすぐそばにあの男がいるのよ?!あ・の!」
 オーはことさら強調して言う。
 私は件の青年の外見を思い浮かべ、まぁ、ちょっと怖いかな、と思った。少なくとも、普段から室内で作業しているしがない組紐職人の自分は、いくら年の差があると言っても、取っ組み合ったら彼には到底かなわないだろう。
 アルーガルド君はがっしりした体をしているし、喧嘩慣れしている雰囲気がある。
「うん、…それで?」
 先を促すと、ペシュは怖い顔をして私を見た。ペシュだって、お年頃なんだから、そんな顔をするのは良くない。かといって、それを注意するほどの勇気もない。
「……じゃない」
「え?」
 ペシュの声は一層低く、よく聞こえなかった。
 聞き返すと、
「最強じゃない!」
 今度こそ大きな声で言った。
「根性ない相手だったら何でもほいほい差し出すわよ、これを意図的にやったら完全に犯罪よ、しかも最高に質の悪い!!」
「ああ、まぁ…」
 今回、きっと二人はそんなことは考えてなかっただろうけど、確かに、ペシュの言うことにも一理ある。オーの貰い癖をアテにされるようなことになったら、色々と申し訳が立たない。
 それは困るな、と思っていると、ペシュの鋭い視線がバッと動いた。
「…………聞いてるの、オー」
 地を這うような不穏な気配を秘めた声に、オーは頷いて、トマトを指差した。
「ええ、ペシュ……これ、サラダにするの?食べ切れないわ…こんなにたくさんあるんだもの」
 あくまでおっとりと、オーは言った。
 ――― プツン
「……………」
「ペ、ペシュ、落ち着いて……」
 オーには悪気はないのだ。それだからこそ質が悪いと言うことはともかく。
「わたし、トマトスープが食べた」
 オーが言い終わる前に、ペシュの肩が、ふるっと震えた。
「そこになおんなさいっ」
 雷が落ちるとはこういうのを言うんだろう。
 それからペシュは長々と根気良くオーに説教をし、最後には思わず、もうその辺で……と口を挟んだ私まで一緒に叱られたのだった。
「トマト、美味しそうね」
 郵便が来たのを機に説教が終わった直後、オーは私の方をむいて、にこりと笑った。ペシュの苦労を思うならここで苦言を呈すべきだろうが、思わず同意の笑みを返すしかないような、笑顔である。
「……そうだね」
 しばらく、トマト尽しになりそうだった。きっとペシュは美味しいサラダやトマトスープを作ってくれるだろう。
「オー?ギルドから手紙来てるわよ」
「はぁい」
 私は仕事の続きをするために、工房へ向かった。
 

fin.

 

 アルジャン一人称。
 秋吉さんからいただいた市場漫画の前後ですが、市場小話というより、トマト小話。