闇色の夢





 ひどく気分の悪いところへ更に体を揺さぶられ、こみ上げてきた吐き気に、相手を怒鳴りつけてやろうと顔を上げて、目が覚めた。
「随分と、魘されていたよ」
 は、は、と弾む自身の呼吸がうるさい。
 泥沼のような夢から急に引き上げられた頭は、現実を現実と認識するまでに数秒の間を要した。
 自分を揺り起こしたのが、まだ見慣れたとは言えぬ異種族の整いすぎた顔であったせいもあるだろう。
 雲間の月明かりばかりが頼りの今、やけに白く浮かび上がるエルフの顔立ちは、人間であるヘンリーにとって如何にも浮世離れして見えた。
「……悪ぃ、起こしたか」
 自分と相手は二人で旅をしているところで、馬車に乗り損ねて、今夜は街道脇の大木に身を寄せ野宿をすることになったのだと思い出す。
 額に手をやると、嫌な汗でべったりと濡れていた。
「もともと眠りの浅いたちなんだ。……水を?それとも、酒精の方が良いかな」
「……水で良い」
 こんなときには、酒を煽っても無駄だと知っている。
 水筒を受け取り、それを持つ手が震えているのに気がつかないふりをして口をつけた。
「日頃から人間と言うのは騒がしいものだと思っていたけれど、君は大概だな。夢の中まで騒がしい」
 そう言って、くすりと笑うのは、人間を馬鹿にしているのか、それともヘンリーの尋常ならざる様子を冗談に紛れさせてくれようとしているのか、俄かには判別付けがたい。
 もとより雇い主と雇われ者の関係であるから、エルフの男がヘンリーに深い関心を抱くことはなく、それはヘンリーにとってありがたいことでもあったが、男の笑みの意図が何であれ、今は蔑視を撥ね退けるだけの気力も、合わせて軽口を叩くだけの余裕もなかった。
「ひとを、ころしたことはあるか」
 だからと言ってそれはあまりに唐突な質問に過ぎた。
 ヘンリー自身、口に出した瞬間にそう言った自分が疑わしくもなり、相手の反応が恐ろしくもなったが、ここでもありがたいことにと言うべきか、エルフの男は平然としていた。
「エルフは、命を奪うと言うことをできる限りしない。魂が穢れるからね」
「たましい……?」
 吟遊詩人として生計を得ることもあるという男の声は、夜風に吹かれてなお音楽的な響きを失わない。
「そう。死者の憎悪や怨恨と言った暗い感情は魂を汚し、歪める。血を流し、命を刈り取り、呪いを受けた魂は闇に堕ちる」
「闇におちると、どうなるんだ」
「醜い魔物になる。精霊に見放され、神の光に焼かれ、人に厭われるばかりの哀れな魔物に」
「……ダークエルフは、元はエルフだと?」
 モンスターの中に、そういう種類があると言うことは知っていた。だが、それは姿かたちがエルフを連想させると言うだけで、実際的な関連はないのかと思っていた。
 そう問えば、夜闇に解けるような黒髪のエルフは、曖昧に緩く首を振った。
「さぁ。僕らの故郷ではそう伝承されている、と言うだけのことだよ。この世界には、狩をするエルフもいれば、戦をするエルフもいる。……どうだろうね」
 夜天の下にあっては漆黒に見える双眸が瞬く。
「ヘンリー」
 ただの呼びかけ以上の意味があるかのように、男はまだほとんど呼んだことのない名をやけに丁寧に口にした。
「ひとをころしたのかい」
「殺してない。……神に誓って」
 そう、と小さい応えが返る。
 神学をかじったばかりのクレリックが口にした誓いを揶揄するでもなく、問いを重ねるでもなく、頷く。
「それなら、囚われてはいけないよ。……君の夢は騒がしい。もしも闇を呼ぶようなら、僕は君とはいられない」
「どうすればいい」
 夢は、確かに騒がしかった。
 ヘンリーは時折ではあるが、こうして夜の平穏を奪われる。
 わけもわからず、自分がひとを殺したような、ひとに殺されたような、そんな感覚を覆いかぶせられて、息苦しくなる夜がある。
 エルフの男が、魘されるヘンリーの何をどこまでどうして感じ取ったのかは分からなかったが、精霊と縁深いエルフであればそういうこともあるのだろうと漠然と思った。
「君には信仰という光がある。それに頼れば良い」
「祈れば良いということか」
「……神の光を持たない僕に、そんなことはわからないよ」
 竜神の教えを受けないと言う男は、そういって顔を僅かに背けた。
「闇を呼ぶのは心のうつろだ。囚われないように、落ち込まないように……支えとなるものがあれば良い」
「竜神を崇めないあんたは、何を支えにしてるんだ」
 話をしているうちに、気分は大分ましになっていた。だから、そんな問いが口を付いて出る。
 エルフの男は視線をそらしたままで答えた。
「命の連なり、血の流れ。与えられた名とその心。そういうものが、僕を光の世界に繋ぎとめる」
 男の言葉は一編の詩のようであり、わかりにくかったが、エルフは一族の結束力が強いと言う話だったから、その結束をということだろうとヘンリーは理解した。
「……与えられた名って……あんたの、名前はどんな意味なんだ?」
 男は向き直り、束の間思案するような間をおいて、
「<光の錦>」
 ヘンリーには分からない言葉で返事を紡いだ。
「今のは、エルフ語か」
「名は、その命の形を決め、時には道を示すもの。僕らにとっては精霊王の守護にして祝福。そうやすやすと心をさらしてはいけないものだよ」
 結局、教える気はないらしかった。
 男は笑み、もう寝ると良い、と下草を倒しただけの寝床を指差した。
「僕はあまりうまくないけれど、ひとつ、まじないをしてあげよう。もう悪い夢を見ないように」
 火掻きにしていた木の棒を取り、随分前から燻るばかりの焚き火を弄る。
 そうして煤をつけた棒で、地面に円を二つ描いた。見たことのない、文字のような記号のようなものが書き加えられる。
「まじない?」
「四大精霊の中では、火精がもっともよく闇を払ってくれる」
「そういうの、エルフなら誰でも出来るのか」
「僕はうまくないといったろう。効くかどうかはわからない」
 悪びれずに肩をすくめた相手に、ヘンリーは馬鹿馬鹿しくなってやや乱暴に横になった。
「……おやすみ、ヘンリー」
 名は守護にして祝福だと言った相手の言葉を思い出し、
「おやすみ。……クルール、起こして悪かったな」
 ヘンリーはぎこちなく言って目を閉じた。

 

fin.
 

 若いヘンリーとクルールの話。知り合ったばかり。
 ヘンリーはフィールドワークの案内役兼護衛としてクルールを雇ってました。経緯は考えてません。
 ヘンリーに重い過去をつける気はないので、夢はただの夢です。というか、本人自覚全然ないけど、霊媒体質。笑
 クルール(couleur)は、英語で言うところのcolorです。色。
2008.01.25