霊の娘


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 叔父のあとを、ラルムは少し遅れて歩いていった。
 水の精霊たちが命じなくとも力を働かせてくれるから、冷たいみぞれが彼女の身体に触れることはない。ただ冷えた空気だけが頬に沁みる。目の前にいるクルールもまた精霊に守られ、雨除けの外套を防寒のために肩から羽織るに留めていた。
 その背を見ながら、ラルムはふと気がついた。
 精霊たちが離れていくことをひどく嫌い、よほど必要に駆られなければ銀貨すら持ち歩かないラルムと違い、クルールは金や銀の装飾品をよく好んだ。ラルムにとっては恐ろしいばかりの刃物を持ち歩いていることも知っている。
 けれど、今日はそれがなかった。
 彼が妖精界にいるときにも外すことのなかった、三つのピアスすらも。
「おじさま」
「そう遠くへ行くつもりはないよ。……広場の噴水で良いか」
 目的地が聞きたかったわけではないのだけれど。思いながらも、それ以上は尋ねずに従う。行けば分かるだろうし、それはきっと自分のためを思ってのことなのだ。
 クローデル家から広場まではそう離れていない。
 みぞれまじりの重たい雨粒がどんよりとした街の屋根や石畳を叩く音を聞きながら歩むうち、円形の噴水が見えてきた。
 溢れんばかりの水を湛えたそこは、街の中で一番水の気配が濃い。水底を連想させる冷えた水の匂いは、ラルムを安堵させもし、不安にさせもした。
 クルールは噴水の傍らで立ち止まり、ラルムを振り返った。
「わかる?」
「……なに、を……?」
 十歩にも満たない叔父との距離が遠いものに感じられて、ラルムはよりそのそばへ近寄った。
 この空気の中で、一人でいることが怖い。
 なによりも親しい水の気配の中にあって、こんな風に思うことが、ラルムは自分でも不可解だった。
「今日は水精季、水の日、くわえてこの天候。水の時は逃してしまったけれど、ここまで条件が集まれば、より強い精霊と結ぶのには充分だよ」
 新しい精霊と契約をするよう、助言を受けたのは数日前のことだ。
 アルバータの森に出現するという魔導の館、それを探し出し、エルフの里へ向かうその動きを止めるという依頼を無事に終えるためには、今のラルムのシャーマンとしての力では足りない。
「本当は、森の泉か川にでも行きたいところだけれど」
 ここから距離があるからね、とクルールは噴水の水面に触れる。
「でも、わたし……やり方がわからないわ」
 気がついたときには、水の精霊たちは傍にいてラルムを守ってくれていた。契約を意識したことなどない。
 もともと、彼女たちは母を守っていた精霊だ。母の最期の望みにこたえて、傍にいてくれているに過ぎない。
「大丈夫。それに、ラルムがこのままギルドに留まるなら、絶対に必要なことだから」
「……クルールの叔父さまは、わたしが、ここにいた方が良いと思う?お父さまは……どう思っているかしら」
 十年以上も顔すら見ていない父に再会することが、ラルムには怖かった。
 母が死んで、父はラルムを見ないようになった。母を失った悲しみよりも、それがラルムには辛かった。家族とも言うべきエルフたちはいつでも優しかったが、その腕の中では、安らげなかった。哀悼の歌声が如何に美しくとも、ラルムが欲しいものはそれではなかったから、慰めようとしてくれる手を振り払い、挙句の果てに叔父をひどく傷つけて、ラルムはひとりになった。
 うつむいた姪の手を、クルールはそっと掴む。
 精霊との感応に優れている二人は、そうすることで体温だけでなく仄かな感情を交わらせることが出来る。
「おじさま……」
 ラルムがクルールから与えられるのは、いつでも暖かな安心感だ。
「ラルムは、どうしてティフォンが君にその名前を授けたか、知っている?」
「……知らないわ」
 急に話を変えられたように感じて、ラルムは顔を上げた。
 叔父の顔には穏やかな微笑が湛えられている。
 その表情に、造作も色彩も似ていると言うわけでもないのに、ラルムは父を思い出した。
「ラルムが生まれたのは、今日みたいな水の日だったよ。アークも僕も、皆、産小屋の外で君が生まれてくるのを待ってた。あれほど時間を長く感じたことはないね。待って待って、やっと産声が聞こえた。フローリアも無事だとわかって、皆、喜ぶよりも安心して腑抜けになってしまったみたいだった」
 自分が生まれたときの話を聞くのは、なんだか不思議な心地だった。
 どこか楽しそうに話すクルールを見上げながら、ラルムは耳を傾けていた。
「やっと入っていいというお許しが産婆のドワーフから出て、アークと僕が一番最初に中に入った。そうしてね、フローリアに抱かれた赤子を見たとき、アークは、泣いたんだよ」
 クルールはそのときのことを思い出して笑い、黙って聞いているラルムの頬に触れた。
「<喜びの雫の娘>」
 かつて赤子へしたのと同じように、その秀でた額へ祝福の口付けを贈る。
「ラルムという名前の意味を忘れないで。それさえ守ってくれたら、ラルムがどこで生きることを望んでも、僕は歓迎するから」




 ラルムの求めに、"それ"はすぐに応じて姿を現してくれた。まだ人と繋がりのない水の精霊は、確かに見えているはずなのに少しぼやけているように感じる。
 クルールは少し離れたところから、ラルムが新しい精霊と結ぶのを見守っていた。金属の類は一切合財部屋においてきたが、それでもあまり近くにいて気を散らすといけない。
 精霊とのやりとりは無声の会話であるから、辺りは静かだった。
 水の気が濃いぶんだけ、より高位の精霊が現れやすい。ラルムが会話している相手がどの程度の力を持つのかは明瞭ではなかったが、水と相性のよい術師への好意なのか、噴水を中心に して広場は雨の色合いが濃くなってきたみぞれから守られていた。天から降り注ぐ雫は、地面を打つかわりに空中で数多の水球をなし、浮いている。
 うつくしい光景だった。
 器の小さい術師であれば、力を見せ付けられているように受け取るかもしれないが、精霊の満ちる妖精界で生まれ育ったクルールはもとより、精霊とともに生きてきたラルムが屈託を見せることはない。
 その心にすこしでも歪みが見えれば、精霊は決して力を貸してはくれないだろう。
 やがて、噴水の上に浮かぶ像が一瞬青い光を帯びたかと思うと、より確かな輪郭を持って"彼ら"はたたずんでいた。
「クルールのおじさま」
 心なし晴れやかな声に、微笑みを返す。
 どうやら、終わったらしい。
「名前は?」
「フルーヴと、フォンテーヌ」
 これまでラルムを守っていた小さな精霊とは違う。ひとのような大きさと形をした"彼ら"は、対の存在らしかった。
 静と動、二つの役割を持つ精霊がいるといいと言ったのはクルールだが、ラルムは一度にそれらと結んだようだ。
 ラルムが与えた名前は、徐々に彼らの形を決めていくだろう。
 ひとならぬ深く青い瞳がクルールを見る。すべてを見透かすような、人知を超えた眼だ。
「<祝福を>」
 精霊たちは、親愛の情に満ちた響きを心に返した。

 

That's all ..... ?

 larmeはフランス語で「涙」だそうです。当初、水系シャーマンということだけ決まっていたので、水関連だし響きが良いからと思って選びました。
 父親が嬉し泣きしたからだという設定は、実際にラルムを動かしはじめて割とすぐに生まれた設定なので、ようやく出すことが出来て嬉しいです。
 新しい精霊と契約を結ばせたくて書き始めたものの、肝心のそこはかなりなおざりになって……あれ?
 一応、ラルムの話なわけですが、クルールの話でもあるのでちょっと視点が定まらなくなってしまいました。反省。
2007.09.21