霊の娘


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 水精季光月、最初の水の日だった。
 暦は人の作り出したものだが、もともと自然の変化に合わせて作られているから、暦どおり、その日は一段と水の気配が濃く満ちていた。
 徐々に気温の下がっていることは前から感じていたが、水精季に入った途端、がくんと寒くなった気がする。
 クルールは、ギルド男子寮の一室で、先日手に入れた分厚い本を捲っていた。ファラトリア出身の学者が、ザイエルへ行って聞き集めた伝承について書かれている。
 口承文化の発達したエルフの一族では、書物など滅多にお目にかかることはないのだが、比較的頻繁に人間界を訪れるうち、クルールは読書というものを覚えた。
 世代交代の激しい種族では、明文化がいかに有効であるかわかる。すでに滅びた文化が形として残されているのも興味深かった。
 暖炉に火を入れてあるので、室内は暖かい。
 ふと、それまで無かった物音が耳に入り、クルールは顔を上げた。窓の方へ視線をやるが、外が見えるわけではない。王立とはいえ、たかが寮の一室の窓に硝子などという上等なものが嵌められているわけもなく、気温の下がる水精季には空気の入れ替えをするとき以外、木の戸が立ててあった。
 本を置き、窓際によると、その木戸をそっと開ける。
 冷たいものが頬に触れた。
「雨……みぞれかな、通りで冷えると思った」
 外へ向かって吐かれた息が白い。
 クルールの部屋からは、男子寮と女子寮を区切る林が見える。濡れつつあるその景色の合間を、水の精霊が泳ぐように飛び交っているのがわかった。
(ラルムが生まれたのも、こんな日だったな)
 アルバータの森の奥、普通ならとっくに妖精界へ戻っている時節に、一人の人間と共に彼らの一族はいた。
 族人と情を交わした栗色の髪をした人間の娘 ――― フローリアが子供を産むと言うので、誰もが大きな期待と不安に緊張していた様子を、今でもまざまざと思い出すことが出来る。
 そのとき、クルールは兄の傍にいた。
 アルカンスィエルは、我が子を身ごもった妻 ―― 人間界で生まれ育ったハーフエルフの父を持つ兄は、フローリアのためにも人間の習俗に則って契りを交わしていた ―― の隣になるべくいるようにしていたが、いざ赤子が生まれるとなると、途端に男どもは邪魔者扱いである。まだ暖かいうちにドワーフたちに建ててもらった産屋の外で、そのときを待つことしか出来なかった。
 アルカンスィエルは、見ていて心配になるほど緊張していた。
 もちろん、クルールとて緊張が全く無かったわけではない。
 一族の懐妊率はきわめて低く、ようやく身籠ったとしても死産や流産の危険性があり、こどもは無事生まれても、母親が命を落とすこともある。ときには、その両方が出産の負荷に耐えられずに逝ってしまうことさえあった。
 フローリアは人間の娘であるが、そのこどもの血の半分はエルフのものだ。初産と言うこともあって、不安は尽きなかった。
 産声が響いてきたときの、あの喜び。
 はじめて我が子を目の前にしたアルカンスィエルの何とも言えない感動が、そばにいたクルールに伝わり、他の族人たちの感情さえも染めて、寒さを忘れるような幸福感に一族は包まれた。
 そこまで思い返して、クルールは目を伏せた。
 あのときの歓喜を思い出せば、そのあとの絶望も思い出されずにはいられない。
(これ以上は止そう)
 心の中で呟く。
 過去に蓋をするように、窓をもとのとおりに閉じた。
 かなしいことは思い出さないほうが良い。胸が痛む。
 エルフはかなしみに殺されるの、という母の声が蘇った。



 最初は気のせいかと思ったが、確かに聞こえたノックの音に、ペシュは席を立った。
 父親のアルジャンは工房にいる。すぐ目の前にはラルムが座っていたが、ペシュのほうが玄関に近かった。それに、ラルムを応対に出させる気は最初からない。
「どなた……」
 まだ夕刻ではあるが、天候のせいですっかり暗い。加えて、こんなみぞれまじりの雨の中訪ねてくるような人に思い当たるところがなかった。いつも頼んでいる牛乳の配達がくるのは今日ではないし、仕事関連で来客があるという話も聞いていない。こんな日に客ということもないだろう。
「やぁ」
「クルールさん!」
 だから、その人を見てペシュは少なからず驚いた。
 クルールは雨天用の脂が引かれた外套を頭から羽織ってはいたが、それでもしのぎきれなかったと見えて、足元がすっかり濡れている。
 寒かったんじゃないかと思いながら急いで中へ招き入れる。
「クルールのおじさま?」
 声を聞きつけて、ラルムも立ち上がった。クルールの外套の裾から、ぽたぽたと水滴が落ちている。
 扉は閉めたが、来客者の纏っていた冷気の名残が、ひやりと二人の娘に触れた。
「あの、どうぞ暖炉の傍によってください。今、拭くもの持ってきますから」
 すぐに行動に移ろうとしたペシュに、クルールは手を上げて断る。
「ありがとう、でもすぐに出るから。ラルムと外に行きたいのだけれど」
「おじさま、どこに行くの」
 ラルムが叔父に従う様子であるのを見てとり、ペシュは彼女のために外套を取って渡した。
「外に行くなら暖かくしないと。風邪、ひかないでよ」
「ありがとう、ペシュ。大丈夫よ」
 最初のうちはクルールとラルムを二人きりにさせるのが恐ろしかった。
 二人の間にはある血のつながりという、これ以上ない確かな絆が、ペシュとラルムの間にはない。
 家族として暮らしていた三人の前に、突然現れたこの黒髪のエルフが、"姉"をどこか遠い場所へ奪っていってしまうのだと思った。
 けれど、少なくとも今は、唐突にいなくなるようなことはないだろうとわかっている。
 初め、ちゃんとした事情を知らずに非難を浴びせたペシュやアルジャンに対してもクルールは礼節をわきまえていたし、ラルムにも帰宅を強要するようなことを言わなかった。
 ペシュは、彼が自分たちと同じようにラルムを大事に思い、その意志を尊重しようとしているのが分かった。
 だから、もう恐ろしくはない。
 もしもラルムが自分たちのもとを離れるとしても、それは彼女自身が選んだことであって、ペシュはそれを受け入れなければならないのだった。
「そう遠くへ行く必要はないから、すぐに戻ってくるよ。アルジャン君によろしく」
「いってきます」
「はい……いってらっしゃい」
 二人を見送り、ペシュは小さく溜息を零した。
 ラルムは、此処を去ってしまう気がした。
 

精霊の娘3

 硝子って高級品ですよね、と……。鏡も主流は金属の表面を磨いたやつだと思います。ホセさんの水鏡欲しいです。
 水の日、っていうのは、まぁ、曜日と言うか……十干十二支みたいに年・月・日・時に属性が振り分けられてたら良いんじゃないかなぁと思います。
 そんなわけで、ラルムの誕生日は「水精季光月、最初の水の日」です。クルールたちは普段妖精界にいるし暦を気にして過ごしていないので、誕生日とか人間界の暦でいつが何日だったかなどと言うのは、覚えてません。年齢は、数え年かな……。自分の年齢自体、あまり気にしてない気も。 数十年くらい勘違いしてることも普通にありそう。
 網川さんの暦考察も参考に!ありがとうございますー!