Argent=Claudel

 

「うちの娘を貰ってくれないか」
「え……?」
 そんなことを言われる日が来るとは思っていなかった。
 確かに、仕事で店を訪ねるたび、彼女の姿が見えないかと気にかけてはいた。幼い頃はその手を引いて市場へ行ったこともある。
 私は、彼女が美しく成長するさまを、彼女の両親の次くらいには近いところでずっと見ていた。 成人する前から彼女に懸想する男は多かったし、実際に見知らぬ男から恋文を貰ったのだと本人から相談を受けることもあった。
 だから、まさか彼女が自分の妻になるなどということを考えたことはなかったのだ。
「オーレリーは……」
 ありがたい申し出だとは思った。けれど、それが彼女の望みだとは思えなかった。
「良いんだ。わしは君に貰ってもらいたいんだ。アルジャン君なら安心だからな」
 何が安心だと言われているのか、よくわからなかった。
 私は、誠実だとか真面目だとかいうわけではなく、ただ不器用で与えられた仕事に取り組むことしか知らない小さな男だった。
 成人するなり家を出て自立した妹のような積極性や、誰からも好かれる弟のような人を惹きつける魅力もない。
 それは自覚していることであったし、父親にも言われたことであったから、間違いはないだろう。
 その父親は、同時に、できること、やるべきことを地道にこなしていればいつか幸運がやってくる、とも言った。
「オーレリーにはもう、わしから言ってある。君の気持ちはどうだ」
 これが、その幸運だろうか。
「……よろこんで」
 答えた声が、まるで他人のもののように聞こえた。


 オーレリーの実家はこの辺りでは名の知れた糸の卸問屋で、ちょっとした資産家だったが、結婚式はこじんまりと行なった。あまり派手なことは好きではなかったし、オーレリーもそれを望んだ。
 馴染みの仕立て屋に頼んだ手の込んだ花嫁衣裳を身に纏い、純白の花を髪に挿した彼女はとても美しかった。
「きれいだよ」
「嬉しいわ」
 父親の言葉に従った彼女が、本心ではこの結婚をどう思っているのか、私は知らなかった。
 私は、確認するだけの勇気も持たなかったのだ。
 そうして、私たちは神の前で契りを交わした。
 彼女の両親、私の両親、私の妹、それから特に関係が親しい招待客は皆、惜しみない祝福を与えてくれた。
 ただひとり、咎めるような鋭い視線をむけてくる弟に、私は気がつかない振りをした。


「おにいさま」
「……できれば、名前で呼んで欲しいな。もう、夫婦なんだから」
「……アルジャン……?なんだか、変な感じね」
 寝台に腰掛けたオーレリーは、あどけない仕草で首を傾げる。
 漆黒の髪の合間からのぞく白い細首がとても扇情的で、私は急な罪悪感にとらわれた。
「アルジャン?」
「……なんでもないよ。その、口付けても?」
 きっと、浮かべた笑みはぎこちなかっただろう。情けない男だと思ったに違いない。
 伸ばした手は緊張に強張り、少し汗をかいていた。
「わたしたち、もう夫婦なんでしょう」
 オーレリーはそう答えて、私の首に腕を絡ませた。
 初めて触れる、服を取り去った彼女の身体は、驚くほどやわらかく、暖かかった。
 香水の甘い香。敷布に広がった黒髪の流れ、濡れた唇からこぼれる吐息。
 未だに現実感を持てぬまま、私は彼女を抱いた。


 いつか、何かもがしっくりと落ち着く日が来るのだと信じていた。
 結婚した年の終わりに生まれた娘は、両方の両親とも相談して、ペシュと名づけた。
 東の果てにあるという国で魔除けの力を持つと伝えられるという、神聖な果実の名前だ。みずみずしく、すこやかな娘に育って欲しいと願った。
 その髪や眼の色こそ私譲りだったが、顔立ちはどことなくオーレリーに似ており、腕の中できゃっきゃと声を上げて笑うその子を見ると、この上ない幸福感を感じることが出来た。
 私は相変わらずしがない組紐職人であり、オーレリーはあまり得意とはいえなかったが積極的に家事に取り組み、子供の世話をした。
 時折、彼女が窓際で何処か遠くを見るような目をしていることがあるのに気がついていたが、私は何も言わなかった。
 そのとき、彼女に話しかけていたら、何かが変わっただろうか。
「……ねえ、アルジャン」
 ある夕方、ペシュが昼寝をしている間のことだった。
 いつも明るいオーレリーの聞きなれないその声音に、私は彼女の言いたいことがすぐにわかった。
「わたし、この家を出て行くわ」
 わかってはいても、実際に自分の耳で聞くと、冷たい手で心臓を掴まれたような心地がした。
「……ペシュは、連れていかないでくれないか」
「理由も聞いてくれないのね」
 ひどいひと、と彼女の泣きそうな笑顔が私を責めていた。
 その通りだった。
 私は、いつかすべてが丸く収まる日が来ると信じる以上に、こんな日が来るだろうと半ば確信的に思っていた。離れていこうとする彼女を引き止める自信もなく、自信がないから、引き止めるという行為自体を放棄した、駄目な男だった。
「アルジャン、わたし、あなたのことが好きだったわ。でも、それは、おにいさまとして、よ」
 私はオーレリーのことが好きだった。
 それを、妹に対する感情のままにしておくことも可能なはずだった。けれど私は、あのとき、彼女の父親が差し出した幸運を、断ることが出来なかった。
 うまくいかないとわかっていながら、もしかしたらという身勝手な思いを捨て切れなかった。
「さようなら、アルジャン。ペシュはあなたに任せるわ」
「……さよなら、オーレリー。ありがとう」
 それ以上、彼女は一言も言わずに、ただ何も知らずに眠る娘の額に接吻だけを残して、出て行った。
 どこへ行くとも、あてがあるとも言わずに。
 私は、またしても何も聞かなかった。
 彼女の手を取る他の男の可能性など考えたくもなかった。
 結局のところ、最初から最後まで私は自分のことしか考えられない狭量な男で、そのためにオーレリーを悩ませ、幼い娘から母親を奪ってしまったのだ。
「ごめんよ、ペシュ」
 とろりと丸い頬に触れる。
 ペシュが生まれたとき、この子さえいれば自分は生きていけると、そう思った。
「どこまでも身勝手な父親で、すまない」
 こどもは、情けない男の懺悔など耳に入らぬ様子で、すやすやと眠っていた。
 

fin.
 

何でこんなものを打っているのか、私にも分かりません。
2007.09.30

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