Annette=Claudel
「みっともないからやめてくれる」
ずず、とだらしなくカフェオレをすすると、間髪いれずにそんな注意が飛んで来る。
飴が欲しかったところへ鞭を食らったような気分になり、アレクセイはカップを置いた。カウンターの上へだらりと上半身を伏せる。
「お客さーん?ここは仮眠室でも何でもないんだけど」
「おい、……アン、お前冷たいぞ」
顔だけあげて恨めしげに言えば、カフェ・ウールーと店名の入ったエプロンをした妹がチョコがけオレンジピールを小皿に盛り付けたところだった。
「残念ながら、あたしには30過ぎの既婚男性に優しくする理由はないの。特に、仕事サボって妹にくだまきに来たダメな兄なんかにはね」
「まだ嫁入り先見つかんないのか、完全嫁き遅れたな」
アネットは答えるかわりに、兄の頭に拳骨を落とした。
「ってぇ……こんな乱暴な子に育てた覚えはないぞ」
「あら奇遇ね。私も育てられた覚えはないわ。……兄さんたち見てたら結婚する気なくなっちゃったのよ」
アネットは今年で二十八歳になる。
十四で成人し、数年のうちに結婚することも珍しくない中、適齢期を逸してしまったと言う自覚はある。
「なんでだ。兄貴はともかく、うちは円満だぜ」
「よく言うわ」
堅実な家庭生活をしていると見えた長兄が離婚し、オーレリーが次兄と結婚したときのアネットの驚きは生半可なものではなかった。
もちろん、母も他の周囲の人間も、あのとき、驚かなかった者はいない。
(ああ、でも ―――)
父親だけは違ったかもしれない、とアネットは思った。
嘆いた母と違い、父は息子にどんな声もかけなかった。それは無言の責めというよりは、慰めに近いものではなかったか。
アルジャンが何も言わなかったのと同じように、父もなにか説明するようなことはなかったから、未だにアネットの中で二人の離婚は謎なのだった。
ほどなくアレクセイとオーレリーが結婚したことに、以前から二人の間には関係があったのではないかという推測を囁く親戚もいた。
オーレリーの父親などは、自分の娘が不実を働いたのだと信じて疑わない。
しかし、アネットにはそうは思えなかった。思いたくないだけかもしれないが。
「……ほら、飲み終わったなら仕事に戻んなさいよ」
「戻りたくねぇ……」
「クビになるわよ」
ぐだぐだとアレクセイは立ち上がる気配もない。
「どうせ、納品先で知り合いに会うのが嫌なんでしょう。自業自得だわ」
アレクセイの勤めるプランタンという化粧品店は、首都近辺に住む中流階級を主に客としているが、もう一つ、花街の娼婦たちも逃すことのできない大きな客だった。
オーレリーと結婚する少し前まで、アレクセイの素行といったら酷いものだった。毎夜、酒臭い連中とつるんで花街へ繰り出し、したたかに酔っ払って帰って来た次兄は、あの頃のアネットにとって怖い存在であった。
成人するなりこのカフェに住み込みで働き始めたのは、もしかしたらそんな兄から離れたかったのかもしれない。
今では、皮肉にも優しく穏やかだった長兄と離れ、次兄と同じ街に住んでいるのだが。
「アン、お前代わりに行ってくれよ。この間、香水やっただろ」
「アレク兄さんに貰ったんじゃなくて、あたしが買ったの。いい加減にしないと追い出すから」
だんだん険のある声になったアネットに、アレクセイは慌てて起き上がった。
昔から、兄とはあまり折り合いがよくないが、この年の離れた妹のことはかわいい。
「冗談だ、自分で行く」
「当たり前でしょ」
そっけないアネットを宥めるように笑みを向ける。
「そうつんけんするなよ。あぁ、そういや、この間、口紅の新しいの出たんだぜ。今度、お前にやるよ。な?」
だから機嫌直せよ、と言わんばかりのアレクセイに、アネットは溜め息をついた。
「あたしじゃなくて、奥さんにあげたら?」
「オーレリーよりもアネットの方が似合う色なんだよ」
こういうところがきっと花街のオネエサン方にも気に入られてるんだろうと思いながら、アネットは頷いた。
「仕方ないわね、もらってあげる。楽しみにしてるわ」
「よしよし、きっと気に入るぜ。近いうち持ってきてやるから」
自分の方が上機嫌になって、アレクセイはなんども頷いた。
「カフェオレもう一杯」
「仕事行ってからね」
アネットは、ほだされても甘くない妹だった。
fin.
ややアレクセイより視点ですが、末っ子アネットの話。 2007.10.10 |