If .....


- Couleur -


 クルールが、自分たちシェイプチェンジャーが早死にする種族であると知ったのは、物心ついてすぐのことだった。
「アーク……!あそこ、誰か倒れているよ」
 兄について食料を探しに出たときのことだ。
 乾いた大地へ日に焼けた黄緑色の草が生い茂っている。山もなければ森もない。遮るものの少ない視界の奥、野生の動物たちとは明らかに違ったものがうずくまっているのを見て取って、クルールは少し離れたところにいた兄を呼んだ。
 生きているのならば、助けなければならない。
 兄弟は辺りを伺いながら、その人影に近寄った。
「……病気なの?」
「わからん」
 倒れていたのは、一人の男だった。その肌はかさかさに乾き、髪はまばらで白いものが混じっている。無数の皺とまだらのようになった染みに覆われた皮膚は、クルールの目に奇妙なものとして映った。それは、いっそ恐ろしいほどだった。
 そのことを兄に伝えると、クルールよりも十ばかり年上のアルカンスィエルは、そのことか、と思い当たったように呟いて頷いた。
「これは人間だ。人間は、長く生きているとこうなる」
 兄弟の一族は人間たちの集落が少ない川から離れた草原に暮らしており、里にいるのは同族の者たちだけである。
 だから、クルールが人間を見たのはそれが初めてだった。
 里の仲間たちに、こんな姿をしたものは誰一人いない。何年か前に死んだアルカンスィエルの父親も、多少の皺はあったが張りとつやのある肌をして、野獣に肩口を噛み千切られて死ぬまで、生気に満ちていた。決して、こんな風ではなかった。
 クルールには、人間だと言う男のそれが、病気かそうでなければ何か禍々しい呪いによって齎されたもののように思えた。
「僕らは?僕らはこんな風にはならないよ」
「おれもお前も、それほど長く生きん」
 言って、アルカンスィエルは何かをこらえるような顔つきになった。
 彼らの母であるティフォンは、もうそう先が長くないであろうことが、兄弟の中で一番年上の彼には分かるのだ。
 末子であるクルールには分からなかった。
「どうして」
「そういう種族だからだ」
 平生と変わらぬ声音が告げるのに、まだ若いシェイプチェンジャーの少年は黙った。兄の言葉を吟味するように口を噤み、獲物を探すでもなく此処ではない何処かを見つめた。
 世界には、自分たちと同じような姿かたちをしていながら、全く違う生き物がいるという。
 人間、エルフ、ドワーフ ――― その名すら、クルールには聞きなれない。
 足元の"人間"が呻いた。
「……こいつ、生きてるな」
 兄の呟きに、クルールは視線を戻す。
「どうするの」
「……普通、こんなところに人間が一人で来るものではないが、こいつは犯罪者だな。見てみろ、鞭で打たれた痕がある」
「ほんとうだ」
 彼らの里に鞭打ち刑の慣習はない。
 何をしたのかは知らないが、人間の集落から追放され、こんな荒野に近い場所に置いていかれたのだろう。
「おい、お前」
 アルカンスィエルはしゃがみこみ、いささか荒っぽくその男のぼろきれのような服を掴んで引っ張りあげた。
 その顔が半ば持ち上がる。
 死んで干からびた獣のようだ、とクルールは顔を顰めた。
 死臭がする。
 アルカンスィエルは何言か話しかけたが、まともな返事はひとつも返らず、ただ掠れた呼吸とも呻き声ともつかぬ音が、男がまだ死んでいないことを告げていた。
 だが、決して恵まれているとはいえない草原で生きるクルールやアルカンスィエルにとって、「死んでいない」だけでは「生きている」ことにはならない。
 アルカンスィエルは男の体を持ち上げていた手を離し立ち上がると、もう一方の手に掴んでいた弓を弟に預けた。そうしておいて、腰の曲刀を引き抜く。時には獲物の腹を捌き、時には狼等の害獣から身を守る刀である。
「天に祈れ」
 その言葉は、はたして誰に向けられたものであったのか。
 彼の動作は至極自然で、滑らかだった。
 よく手入れのされた刀は、死んではいないだけの干乾びた男に完全な死をもたらした。
 それが、草原における慈悲と言うものだった。
 枯れ枝のような男の首筋から、一体これほど鮮やかなものがどこにあったのかと言うほどに赤い液体が噴出し、流れる。
 アルカンスィエルは無感動にそれを見下ろし、刀を拭って鞘に収めた。同じ布で、己の頬も拭う。
「離れていればよかったな」
 手を伸ばし、弟の額に触れる。拭いきれなかった血が、白い肌を淡く染めた。
 日々、獣を捌き、革を剥ぐことで生きている彼らは血に対する感慨などない。
 ただ、血臭は害獣や魔を呼び寄せる。好ましいものではなかった。
「今日はもう帰るぞ」
「これは?このままでいいの」
「埋めるにしろ焼くにしろ、道具がない。ほうっておけ」
「わかった」
 さっさと歩き出した兄の後を、クルールは少し小走りに追った。
 しばらくして振り返ると、赤いものはもはや流れるのをやめ、地にしみこむばかりとなったようだ。
 すぐにでも獣がやってきて、その空腹を僅かなりと満たすだろう。
 食べるところがあるようには、クルールには思われなかったが。
「……行商人でも迷い込んでくれば、少しは足しになるんだがな」
 アルカンスィエルはつまらなさそうに言った。罪人が紛れ込んできたところで、地が汚されるばかりで何も良いことがない。
 彼らは、生者から武力を持って金銭を奪うようなことはしないが、死者からは取る。それらは、死者には必要のないものだからだ。
 物が必要とする者の手に渡るだけのことである。
 クルールはさしあたって、人間と言う生き物にさほど興味をそそられなかったので、兄の呟きにも黙っていた。
 初めて見た人間の姿はひたすらに醜く、禍々しいものとして少年に認識されたからだ。
 近いうちに、シェイプチェンジャーであることを隠して人間の街へ行くこともあるかもしれないが、彼にはあまり心弾むこととも思えなかった。
「夕食を獲り損ねたから、怒られるかな」
「ミストラルが何か獲ってるだろう。お前の分はないかもしれんがな」
「ひどいなぁ」
 本当にそんなことになれば、きっと自身の分を分けてくれるに違いない兄が言うのに、クルールは笑った。
 

fin.

 草原は、くさはら、と読んでくださると私が喜びます。
 もしシェイプチェンジャーでも、あんまり今と変わらず子供欲しがってるだろうなぁと言ったら、書いてくれと言われたので、書かないよ!と言いつつ書いてみたところ、全然違う内容に。あれー。
 アークがすごくしっかりしましたね。環境って大事!人間界で生まれ育ってれば、エルフでももうちょっと違ったんじゃないかなぁ。
 エルフとシェイプチェンジャーは、人間から見て特異であると言う点で共通するので、クルールは案外変わらないかな。とりあえず、死ぬ前にたくさん子供作んなきゃ!ってなる。
 あー、エルフ同様、かなり性的に奔放になることが予想されます!うわ。
2008.02.20

 戻る 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

- Larme -


 縞模様の美しい虎が、川の水をばしゃばしゃと遊ばせている。まだ若い虎なのだろう、体はやや小さく、その仕草も何処となく子供染みていた。
 鳥が梢から飛び去り、魚が跳ねる。
 クルールが川辺にやってきたのは、ちょうど虎が跳ねた魚を口で捕まえたところだった。
 そのまま咀嚼するかと思いきや、虎はクルールに気がついて動きを止めた。魚を咥えたまま川に背を向ける。
「クルールのおじさま!」
 機嫌の良さそうな声がするのと同時に魚が跳ね、虎の代わりに長い金髪の娘が現れた。その毛先から水滴が舞う。
「ごはんの時間?」
「そう。もうじき、みんな帰って来るよ」
 跳ねた魚は川に逃げ帰ることなく、クルールが腰から抜いた細身の剣先に貫かれている。
「美味しそうな魚だ」
「それ、おじさまにあげる。わたしはもう二匹も食べたもの」
「こら、つまみぐいをしたね」
 食料調達のためにやって来たはずなのに、一足早く空腹を満たしたらしい姪に、クルールは笑った。
「ごめんなさい、だってとてもお腹が空いてたの」
「アークには内緒にしておいてあげるよ。早く服を着ておいで。ミストラルが立派な雉を獲って来たよ」
「はぁい」
 娘は木の枝にかけてあった衣服に手を伸ばした。


 食事を済ませて片付けも終わった頃、娘の姿がないことに最初に気がついたのは父親のアルカンスィエルだった。
「ラルムはどうした」
「僕は見てないよ」
 普段、彼らが起居するのは川から随分距離のある場所に限られる。川の傍では人間に遭遇する可能性が高いからだ。
 シェイプチェンジャーは何かと迫害に受けやすい。彼らの一族は、人間社会からできる限り無縁な生活を営んでいた。
 今のような乾季には、幾つかの水場を巡ることもあるが、長居はしない。
 日暮れが近くなり、そろそろ移動の準備も始めているというのに、若い少女の姿はどこにも見当たらなかった。
「あいつ、また遠駆けに行ったな」
 アルカンスィエルが苦々しく言う。
 遠駆けといっても、馬を駆るわけではない。自分の四肢でだ。
 最近、ようやく自分の意思で二つの形態を行き来することを覚えたラルムは、暇を見ては獣の姿になって草原を駆けてしまう。時には、行った先で時間切れを迎え、人間の姿で途方にくれているところを父や叔父に保護されると言うこともあった。
 此処から一番近い街道もそれほど人の往来が激しい道ではなく、また虎になったラルムの俊敏性は野生のそれに劣るものではないから、よほどのことがない限り大事には至らないだろうが、それでも心配なものは心配だ。
「探してくる」
 言うなり上着を脱いで姿を転変させた兄を、クルールは笑顔で見送った。
 彼自身はよほど必要に迫られない限り獣の姿となることはなかったが、兄や姪の獣の姿が好きだった。
 まさか、獣でいられる時間の限界まで掛けて戻ってきたアルカンスィエルが、
「ラルムの匂いが途切れた」
 と、人の顔を青ざめさせるなどとは、クルールに限らず一族の誰も思っていなかったのだ。

 

続かない。

 ラルムは猛獣、と言われたので、虎。ハーエルよりも、やや元気。でもやっぱり行方不明。
 クルールは自分の動物形態が醜いと思ってる。母と兄と姪は綺麗だと思ってる。
 ティフォンは雪豹、ミストラルは白い小型動物、アークは狐かな……。クルールはハイエナ。褐色ハイエナ、と思ったけど、ブチハイエナのほうがいいかな…。(どっちでもいい)
 肉食のクルールって変な感じ。
 ちなみに年齢は、ティフォン44、アーク30、クルール20、ラルム15くらい。
 クルールすでに何人か子供がいて、何人かに死なれてますね。だってシェイプチェンジャー。(偏見)

2008.02.20

 戻る 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるの朝、にて

 


 朝、狭い部屋は化粧を直す娼婦たちでごった返していた。
 もちろん彼女たちにはそれぞれ狭いながらに個室があり、準備はそこでもできるのだが、湯を使えるのはこの控え室だけなのだ。
 店の女主人は、娼婦たちに私室で火を焚くことを許していない。
 暖房は地下で火が焚かれ、壁や床の隙間を暖気が行き渡るよう整えられているから問題ないのだが、この季節、ただでさえ連日の化粧や飲酒、睡眠不足で荒れる顔は冷水で洗うには忍びない。
 よって冷え込む間、狭い部屋に集まって娼婦たちは姦しく準備を進めるのだった。
「わたしのコルセットどこぉ?」
「ねぇ、白い絹のドレス取ってちょうだい」
「香水は青い壜よ」
 付き人の幼い少女たちが、指示されるままに香油や衣装、化粧品を店に出る女達に渡す。受け取った娼婦は、手慣れた 動作でより体を細く見せる下着を身に着け、髪を結う。鮮やかな色のドレスの、背面の釦を、すかさず少女が留めた。
 もたもたしていると、女主人の機嫌が悪くなる。
「あら、ベスはどうしたの」
「あぁ、あの子なら……」
 一人の娼婦が、鏡で髪飾りの位置を確認しながら言う。数人から、悔しさの滲む声が上がり、彼女は首を傾げた。
 誰も先を続けようとしないのを見て、仕方なさそうに赤毛の髪をした娼婦が答える。
「昨日、宵越しのお客さんがついたのよ」
「へぇ、良いわね」
「……アルーさまよ」
 恨めしげな声が言った。
「ひどいわ、アルーさま!私を選んでくれないなんて!」
「あら、あなた昨日は別の客がついてたじゃない。私なんて、来るって言ってた客がこなくって空いてたのに!」
「私だって、アルーさまのためなら昨日の客、蹴ったわよ!」
 一人が嘆き始めたのを皮切りに、娼婦たちは口々に憤懣を漏らし出す。
「大体、アルーはお金持ってなさすぎなのよ。此処をどこだと思ってるのかしら!」
「そうよ、宝石箱館の名が泣くわ!」
「護衛で雇われてる自覚もないだろうし」
「女将はカンカンよ」
 アルーガルドという男は、客の一人ではあるのだが、それだけでなく店の護衛でもあるのだ。少なくとも、女主人はそのつもりでいる。
 以前、娼婦に乱暴を働いた迷惑な客を彼が撃退したと言う経緯があってのことなのだが、その時そばにいた女に言わせれば、アルーガルドは自分に売られた喧嘩を買っただけで、決して店や娼婦を守ったわけではない。であるから、護衛役を頼まれたと言う自覚もないだろう。
「あの人、どうしてタダ飯出してもらえると思ってるのかしら」
 一人がしみじみと言う。すかさず、隣りにいた娼婦も同意した。
「そうなのよね、そこがアルーさまの不思議なところよね」
「お金無くてもちっとも悪びれないというか…」
「この間、財布の中にパスタ一皿分も入って無くてびっくりしたわ」
 何気なく続いた女の台詞に、娼婦たちの視線が集まる。
「あなた、また客の財布スったの?」
「やめなさいよ、バレたら私たちまでとばっちり食うに決まってるわ」
「ばれやしないわよ」
 きっぱりと言った女に、まぁそうよね、という空気が流れた。
「もともとろくな街じゃないもの。エルシー、今度奢って」
「やぁーよ」
 仲間の言葉を一蹴し、また話題は件の男に戻る。
「なんの仕事してらっしゃるんだったかしら」
「ギルドでしょう?前に、依頼が来てめんどくさいとかなんとか……」
「どうせ魔物退治とか盗賊退治するなら、此処で迷惑な客退治してくれたら良いのに」
「それだけで食べて行けるほど、女将は出してくれないでしょう」
「ギルドやってる今も、そう変わらないんじゃない?」
 それぞれがアルーガルドの財布の中身を思い返して、沈黙が落ちた。はたはたと白粉をはたく音だけが響く。
「あれなのかしら……アルーがいつも下で遊んでるのは、あれ、持ち金増やそうとしてるのかしら」
「でもカードはそう強くないでしょう」
「ルーレットはまだマシね。大勝したところで、最後には全部スっちゃうのが落ちだけど」
「ギャンブル好きそうな割に、強くないわよね」
「どちらかと言えば、弱いんじゃない?」
「……」
 娼婦にとって良い男というのは、金があって気前が良いのは基本として、賭け事にも強い方が魅力的に決まってる。
 だがアルーガルドという男は、
「気前は良いけどお金持ってないし」
「ギャンブル弱いし」
「滅多に買ってくれないのよね」
 はぁ、と誰とも無く溜め息が落ちる。
 一日のやる気を殺ぐようなその溜息に、誰かが気を取り直したように口を開いた。
「でもお酒は気持ち良く奢ってくれるし」
「ねちっこいところなんか、欠片も無いし」
「なにより良い男だわ」
「顔の傷も野性的で素敵!」
 だんだんと娼婦たちの調子が上がって行く。きゃっきゃと笑い声をあげながら、思い付く限りの男の魅力を並べ立てる。
「嫌な客殴ってくれたし」
「セクシーな身体してるわよね」
「銀髪に紺碧の瞳なんてイカすわ!」
「林檎素手で潰せるし!」
「それ関係ないわよ」
 どっと笑いが起った時だった。
「あんたたち、何ぐずぐずしてるんだいっ!!」
 荒々しく扉を開けた女主人に、娼婦たちは一斉に立ち上がる。
 そして、にっこりと微笑んだ。
「今出るところですわ、マム」
 ドレスに化粧、香水に髪飾り。身繕いは完璧だ。
 どれほど無駄口を叩いていても、準備の手は休めない。彼女たちは玄人なのである。
 そうして春をひさぐ美しい女たちは、今日も逞しく生きるのだった。
 

 秋吉@アルーガルドさんに差し上げたもの。どんな経緯でこんな話を書いたのか、さっぱり覚えてないんですが。
 アルーモテモテ小話でした。娼婦にモテそうだよね!っていう定説。
2007.??

 戻る 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さいごの一日

 

 風は強いが、日差しのぽかぽかとした天気の良い日。
 いよいよ本格的に風精季だなぁと思いながら換気のために窓を開けた時のことだった。
「……っ」
 急に目眩がして、体がぐらりと傾いだ。
 宙を掻いた手が、窓辺に置いてあった花瓶を引っ掛けたらしい。青い硝子が、かしゃあんと音を立てて砕け散り、破片が飛沫と共に飛び散る。
 その様を、私は床に尻餅をつきながら見た。
 やけにゆっくりとして、現実味の薄い光景だった。
「……」
 夢現の私の視界に、さっと影が落ちる。
 黒いレースのカーテンが引かれたようだった。
(わたしは死の精霊。あなたの命の残り時間を告げに来ました)
 薄闇を集めたような体をした"それ"は、腑抜けのように座り込んだまま黙していた私に言った。
 その声は、耳を介さずに、直接脳裏に響く。
(あなたの命はあと一日です。きっかり十二刻で尽きます。やり残したことはありませんか)
 静かで、温度の無い、悲しげな声音だと思った。
 改めて見ると、影のような相手は、長い黒髪の、喪服の女性に見えた。
 精霊の姿は、見る者の意識に左右されるという。
 だから、それは死の精霊の姿というよりは、私の中の死のイメージなのだろう。
「……オーレリー」
 違うと解っていながら、小さく呟いた。
 まだ彼女が私の妻であった頃、一度だけ見たことのある喪服姿。
 あのとき、私は、死んだ遠い親戚よりも、普段とは違う、漆黒に身を包んだ彼女の静かな横顔が気になって仕方が無かった。
(やり残したことはありませんか)
 私の呟きに反応を返すこと無く、精霊は繰り返した。
(きっかり十二刻のち、また参ります。あなたに、死を与えるために)
 彼女は、本当に一日後の私の死を予告しに来ただけらしかった。
 用は済んだとばかりにその体は掻き消え、春の柔らかく色づいた日常が戻って来る。
「父さん、大丈夫?おっきい音がしたけど……」
 扉が開いて、娘のペシュが顔を見せる。
 床に座り込んだ私と割れた花瓶を見ると、表情を硬くして駆け寄ってきた。
「どうしたの?平気?」
 自分が不甲斐ないばかりに、若いこの子に苦労をかけるな、と思いながら、笑みを向ける。
「大丈夫だよ。少し、目が眩んだだけだから……」
「貧血?ちょっと待ってて、今、箒持ってくるね」
 ぱっと身を翻した娘を見送る。
 もう目眩は治まっていた。
 そっと、硝子の破片に触れないよう気をつけて立ち上がる。
 あれは、白昼夢だったのだろうか。
「あと、一日……」
 きっかり十二刻と言っていた。だとすると、明日の朝、この時間、私は死ぬのだ。
 すんなりとその事実を私は受け入れた。
 否、受け入れたというよりは、諦めたのだ。
 それが真実であるのか、変えることはできないのか。
 確認も、努力も、私は放棄した。
 嘘でも本当でも構わない。
 明日になればわかることだ。
 だが、もしも本当に私の命が残り一日限りであるならば―――。

 やらなければ行けないことがある。




「あら、珍しいこともあるのね」
「……やぁ」
 久しぶりに顔をあわせる元妻にして義理の妹に、私は微苦笑を返した。
 別れた後もなお、しばらく胸を焦がしていた恋情は、今ではすっかり息を潜めている。
 跡形も無く忘れたわけではない。うまく仕舞える様になったというだけの話だ。
 オーレリーは、家の花壇から鬱金香の花を摘んでいるところだった。優しい桃色や玉子色をした花々を抱いた彼女は、とてもきれいだ。
 私はそれを、絵画を鑑賞するような、一歩離れた気持ちで眺めた。
「きれいだね」
「にいさまの花壇にも、あったかしら。無かったら、持っていくと良いわ」
 故意にかどうか、オーレリーは私の賛辞を花へのそれに摩り替えて答えた。
 思わず苦笑が浮かんだが、あえて訂正することも無い。
 瑣末事に構っている場合でもないのだ。
 もっとも、焦燥感やそれに似たような感覚は、私の胸のうちのどこを探しても見当たらなかったが。
「まだ咲いてはいなかったと思うけれど、植えてあるよ」
「そう」
「アレクはいるかい」
「ええ。今日は仕事が休みだから。さっき起きたばかりなのよ」
 既に、昼日中と言って良い時分である。
 しょうがないひと、とオーレリーは呟いた。
「中に入って。お茶でも淹れるわ」
「ありがとう。でも、アレクと二人きりで話したいことがあるんだ。構わなくて良いよ」
「そう?」
 オーレリーは小首を傾げながら言い、私を家の中へ導いた。
 三人の子供たちは揃って彼らの叔母であり私の妹であるアネットが働く店へ遊びに行っているとかで、随分と静かだった。
 柔らかい、のんびりとした風精季の空気に満ちている。
 花を生けるオーレリーと別れ、私は階段を登った。
 アレクセイの部屋は、二階の一番端にある。
 コンコン、と叩くと、返事とも呻き声ともつかぬ声が返ってきた。
「アレク?入るよ」
 返事を聞かずに、扉を開ける。
 アレクセイは、まだ寝衣のまま、寝台に腰掛けていた。まだ半ば夢の中なのだろう。眼は開いているのだか閉じているのだかよくわからない。
 窓から差し込む光に、埃の舞っているのが見える。
「仕事、忙しいのか」
「…………」
 一、二、三、四、五秒。
「なぁんで、兄貴が此処にいんだよ」
 ようやく弟の頭は覚醒したらしい。
 不服げな顔をして、私よりも柔らかい色合いをした薄茶の髪を片手で掻き回す。
「悪いな。……少し、話があって」
 私は、ほんとうに申し訳ない気持ちになって言った。
 なにしろ私が持ってきた話というのは、こんな天気の良い麗らかな昼下がりに、心地よい眠りを貪っていたであろう弟に対して話すのに適切だとは、どう考えても、思われなかった。
 だが、私自身、決して死を告げられるのに適切とは思われない時に精霊からの宣告を受けてしまったのだから、仕方のないことなのだ。
 残された時間は、あとわずか。
 頃合を見計らう余裕などない。
「飯、食いながらで良いか」
「いや、この部屋で聞いて欲しい。お前以外に聞かれたくないんだ」
 私を見返すアレクセイの目に、訝しがるような色と、面白がるような色が同時に浮かぶ。
「再婚でもすんのか。相手がオーレリー以外なら、祝福するぞ」
「違う」
 苦笑する。
 本当、そんな話のほうが、よっぽどましだったに違いないのに。
 すまない、と心のうちで謝りながら、私は口を開いた。

「私の命は、明日の朝までらしい。だから、その後のことを頼む」

 一瞬、時が止まったかのようだった。
 アレクセイのぽかんとした表情が、何を言われたのか理解できないと、そう言っていた。
 それもそうだろう。
 私には持病もなく、今とて体調不良を感じているわけでもない。私が健康体であることは弟も知っていることで、彼の目に映る私の顔色も、それほど悪くないはずだった。
「…………どんな、悪い冗談なんだ、そりゃ」
 アレクセイは、笑い飛ばそうとして、失敗したらしかった。
 言葉の最後が掠れている。恐らくは、寝起き以外の理由で。
 決して仲のよい兄弟とはいえなかったが、それでも血の繋がった家族。だから、彼は知っているのだ。私が、こんな冗談を言うような男ではないということを。
 弟の動揺を感じるのと同時に、私の感情はさらに冷え静まっていくようだった。
 自然、その後の言葉は、いくぶん平坦な口調になった。
「今朝、窓を開けようとしたら急に立ち眩みがして、花瓶を一つ割ってしまった。すると、間抜けに座り込んでいた私の前に、黒い幕のようなものが現れて、死の精霊だと名乗った。彼女によると、私の命は残り一日。きっかり十二刻で死ぬそうだ。だから、明日の朝には、私は死んでいると思う」
 私はアレクセイが言葉を取り戻すよりも先に、懐から紐で束ねた紙を取り出して、彼の手に押し付ける。
「家の権利書と、遺言書だ。ペシュと、ラルムを頼む。―――もしかしたら、ラルムは他所に行くかもしれないが、そのときは彼女の意志を尊重してやって欲しい。財産が少しばかりあるから、それは好きに使って良い。父さんと母さんには、この手紙を。こっちはアネット宛だ。あと、これはオーレリーのお父上に。このことは、お前にしか知らせないから、頼むよ」
 渡すべきものは渡し、言うべきことは言った。
 口を閉ざした私に、アレクセイの唇が震えた。
「……ほんとなのか」
「多分。普段、精霊なんて見ることのない私にどうして彼女の姿が見えたのか分からない。死期が迫っている人間にだけは見えるのかもしれないし、もしかしたら白昼夢だったのかもしれない。けれど、私は、ほんとうだと思うよ」
「そんな……」
 アレクセイの眉間が、ぐっと寄せられる。彼の手の中で、紙がくしゃりと音を立てた。
「ふっざけんな!夢に決まってんだろっ……!!」
 弾かれたように立ち上がった彼に拳で胸を叩かれて、私は一歩よろめくようにして後ろに下がった。
 いつでも、私は弟の感情を受け止め切れないのだ。
「ほんとならほんとで、さっさと観念してんじゃねぇよ!精霊避けのまじないとか、なんかあんだろ!?」
「アレク。まじないで死を避けられるのなら、誰も死なない」
「やる前から諦めるなよ!なにも、何もしてねぇくせにッ」
 アレクセイの声が低くなる。
 その言葉は、確かに私の心に突き刺さったが、弟の可哀想なのは、もう生をすっかり諦めてしまった私は、心の痛みを顧みようとする気すら失せていたことだ。
 考えなければ、何も痛まない。
「好い加減にしろよな、どうして、こんな時にまであんたはそうなんだ。少しは足掻いて見せろよ!死にたいわけじゃねぇんだろっ!」
 真剣な、怒りを孕んだ瞳。
 こんな駄目な兄など、見捨ててしまえば良いのに、それが彼には出来ないのだ。
 彼は、どんなときでも自分の望みのために足掻き、欲しがる男だった。
「お前が、羨ましいよ」
 私には、なにかを欲しがるほどの勇気もないのだ。
 希望すら、私には恐ろしい。
「……っだよ、それ…………!」
 私の胸倉を掴んだまま、アレクセイは俯いた。
 肩が震えている。
 こんな、素直な感じ方をする彼に、自分はなんと残酷な役目を押し付けようとしているのだろう。
 だが、彼以外のほかに、適役は誰一人としていなかった。ペシュとラルムはもちろん、アネットにも、オーレリーにも知られたくなかった。親不孝をする両親にも、事前に告げる気にはならない。
 アレクセイしかいなかったのだ。
「たった一日、いや、もう一日もないな。明日の朝まで、堪えてくれれば良いんだ」
 強く握り締められた拳をやんわりと解く。
「頼むよ、アレクセイ」
 私は、弟の部屋を後にした。アレクセイの返事はなかったが、きっと、私の望みどおりにしてくれるだろう。
 階段を下りる途中で、オーレリーが私を見上げた。
「もう帰るの?」
「うん。邪魔したね」
「またアレクを怒らせたのね」
 返す言葉もなく、苦笑いを浮かべる。子供たちが留守にしていて良かった。オーレリーにも、内容までは伝わらなかったに違いない。
「また、来るよ」
 小さな嘘を吐くことになったが、彼女に不審を持たれてはいけない。
 こどもたちによろしく、と一言残して、私は帰路に着いた。


 家に帰ると、ちょうど、ペシュが昼食の準備をし終わったところだった。出かけていた私のために、少し時間を遅くしてくれたのだ。食卓には、ラルム・オーの姿もある。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 声をそろえた二人に言葉を返して、外套を脱ぐ。
「おいしそうだね」
「ポリィおばさんがキャベツをくれたの。今が旬の、柔らかいやつよ」
「いつもありがたいな」
 なんの変哲もない、幸せな日常だ。
 明日からの娘たちを思うとかわいそうな気もしたが、アレクセイがいるから、大丈夫だろう。隣人も頼れる女性だ。ロン君もいる。
 私がいなくても、この子たちは大丈夫だ。
 唯一、死の精霊のことが分かってしまうのではないかと不安だったラルム・オーも、気付いた様子は無い。
 安堵が胸中に広がっていく。
(……あきらめるなよ……!)
 頭の片隅に、アレクセイの声の欠片を感じたが、強いて知らないふりをした。

「少し、篭るよ」
 食事の片づけが済んだ後、私はペシュに声をかけた。
「急ぎの仕事があるの?この間、一段落ついたと思ったのに」
「ああ、ちょっとね。納期の変更があったものだから」
 また一つ、小さな嘘。
 本当は、当分急がなければいけないような仕事はない。ただ、事情が変わった今となっては、全てとまではいかなくても、できる限り迷惑にならないよう、仕事を済ませておきたかった。
「わたし、お傍にいても良い?」
 お茶を飲み終わったラルム・オーが言った。彼女がまだ幼い頃、よく私の側でじっと作業を見ていることがあった。最近ではなかったことなのに、やはり、何かを感じているのだろうか。
「オーったら、邪魔しちゃだめよ」
「だめ?」
 ラルム・オーは首を傾げた。彼女が何かに気がつきかけているのだとすれば、頷くべきではないのかもしれない。
 それなのに、
「構わないよ」
 そう答えてしまったのは、私が弱い人間だからだ。
「ペシュも」
 工房へ向かおうとした私の横で、ラルム・オーが言った。
「ペシュもいっしょが良いわ」
「二人もいたら、邪魔になっちゃうでしょ。それに、誰かお客様が来たらどうするの」
「でも……」
 ああ、やはり、この子にはわかってるんだろう。精霊に愛された、何処か不思議なところのある娘だから。死の気配を、無意識に感じ取っているに違いない。
 私は自然と微笑んでいた。
「良いよ、二人ともおいで。ここのところ、あまりゆっくり話をする機会もなかったしね」
 自分は仕事、ペシュは家事、ラルム・オーはギルドの仕事や友人と出かけるなどして、あまり三人で時間を共有することがなかった。
 こんな天気の良い日には、家族団欒を過ごすのが良い。
「でも、急ぎのお仕事なんでしょ?」
「大丈夫だよ、そこまで切羽詰っているわけではないから」
 少しくらい、仕事よりも家族を優先しても、罰は当たらないだろう。
 さいごくらい、許されるに違いない。


 夜、私は小さな灯火を手元に引き寄せて、真っ白な便箋と向き合っていた。
 必要な手紙は、もう昼間アレクセイに渡してあるというのに、気が落ち着かず、インク壷と紙を用意した。
 未練がないといえば嘘になる。
 だが、それほど執着心は残っていないと思ったのに、やはり私は怖いのだろうか。
 あと数刻後には訪れる死を、恐れているのか。
 黒い透かし織りのような姿をした死の精霊はうつくしかった。
彼女と相対していたとき、私は恐怖を微塵も感じなかった。むしろ、あの時抱いていたのは、安らぎに近い感覚ではなかったか。
 それなのに、今、私は気忙しい気持ちを持て余している。
 何かをしなければいけない。今すぐ、急いで。しかし、何を?
 もう、なにもすることはない。何も、出来ることはない。
 そのはずだ。
「……」
 じじ、と蝋芯が燃える。
 私はおもむろにペンを動かした。

『ペシュへ』

 私の大事な娘へ。
 私にとって娘と呼べる子はもう一人いるが、今日一日言葉少なに側にいた彼女には、わざわざ手紙を宛てる必要性は感じなかった。
 これから書く手紙は、一通で良い。
 この期に及んで一方的な謝罪など、見苦しく、彼女にとっても重荷になるだけだろうと思ったから、あえてその部分には触れないように。
 なるべく、彼女を悲しませないように文字を連ねる。
 今朝、うつくしい死の精霊があらわれたこと。アレクセイに全て託したこと。ペシュのような利発な娘に恵まれてよかったと思うこと。これまで幸せだったこと。最後に、尽きない感謝を。
「……」
 ふと、私は気がついた。
 死がおそろしいのではない。かなしいのだ。
 知らぬ間に零れ落ちた雫が、綴った文字を滲ませている。
「情けない……」
 もっと、ペシュを、ラルム・オーを、見守っていきたかった。
 両親の幸せ、弟夫婦の幸せ、妹の幸せ、すべてを見たかった。
 
 私が大切に思う、すべてのもの。
 私を大切に思ってくれる、すべてのもの。
 それらのすべてに、明日の朝、別れを告げなくてはいけないなんて。

「愛している」

 優しいばかりの世界ではなかった。
 それなのに、別れを目前にして、この世界がこんなにも愛おしい。

 さようならを言うのが、こんなにも辛い。




「父さん、まだ起きてこないのね。珍しいわ、寝坊かしら」
 てきぱきと洗面を済ませ、湯を沸かしながらペシュは首を傾げた。
 いつもならもう姿を見せている父親が、まだ寝ているようなのだ。
 珍しいといえば、もうひとつ珍しいことがある。
「オーは早起きしたのにね」
「……」
 黙ったまま、椅子のうえで膝を抱えて座るラルム・オーに、やっぱりまだ眠いんじゃないの、とペシュは笑った。
「朝ごはん用意してから起こしに行けば良いかしら」
「……そうね」
 ラルム・オーは家主の部屋があるほうに視線をやりながら応えた。
 四半刻のち、ペシュは父親の部屋の戸を叩いた。
「起きてる?朝ごはん、出来たけど……」
 返事がない。
 もう一度ノックしてから、扉を開けた。
「父さん?昨日、遅くまで仕事してたの…………?」
 言いながら、ペシュは得体の知れない違和感を感じて言葉を途切れさせた。
 静かな部屋。見慣れた部屋。
 何一つ動くもののない、部屋。
「父さん……」
 机の上に、インク壷とペンが出しっぱなしになっている。
 それと、封のされていない封筒が一通。
 ペシュはそれに手を触れ、父親が寝ているはずの寝台を振り返った。

fin.

 

 すみません、こんなの一体秋吉さん以外の誰が読みたいというんだろう…。無駄に長いって言うのは、こういうのを言うんですね。

 ちなみに、他のキャラが余命一日を宣告されたとしたら…
ラルム・オー → 好きな人のそばに何を言うでもなくじっといて、そのうちふらっと何処かへいなくなる。
クルール → 家族宛に何か贈り物をして、残ったお金をヘンリーに押し付ける。いつも旅に出るときと同じように姿を消して、ひとり何処かの森へ。

 ……死の宣告を受け入れちゃうキャラばっかりというのも、どうなのか。二人とも、誰にも言わないなー。

2008.04.01

 戻る